⑮交渉
葉が身を寄せる音さえ聞こえる沈黙の中で、彼は灰の眼で見詰めてくる。あたかも手前のネズミを狙うフクロウのように。
わたしはしばし応えられずにいた。いや、答えたくないというのが本音だったのだろう。自分の運命が腹立たしくて、骨が軋み、血が燃えるような気分に、全身の体液が煮詰まりそうだった。
十二年の人生のうちで、最も抑えがたき憤怒を感じていた。
「……わたしに命を捧げろと。レイフの無事が保証されるならば結構ですが、生憎死人に目も口もありません」
我ながら低い声で応じると、雪をまとった紅葉の手がわたしの裾を掴んだ。宥めるように頬を撫でると、脇腹に熱が埋められる。
「なぜ、レイフを攫ったか教えてください」
よどむ心のもやに押されるまま、わたしは身を乗り出して問い質す。彼の視線は、少しも変わらない。
やはり見慣れた彼の姿勢である。彼は手を顎にやって語った。
「端的に言うとレイフは餌で──本命はお前だ、エヴァンジェリン」
別人の姿をした先生の手が伸ばされ、人差し指が額を突いた。豆の多い手は、ユーリーがたくましい戦士だったのだと思わせる。
脳裏に浮かぶのは、初めて会ったときのこと。レイフの母を通して、わたしの教師として教会へやってきたときのこと。学費の代わりにレイフの世話を頼んできたこと。
「昔から語っていたが、お前は彼女の末裔。そして、その罪を償う宿命を持って生まれた。大陸──ダヌヴェ人の最後を見届ける。風と剣の女神に呪われた彼らの土地は死に絶えつつあるだろう」
先生は授業の時とまるで変わらぬさま。
おそらく呆けた顔をしているわたしを見ても、つまづいた子どもを無視するように、淡々と話す。
嵐が来ても速度や水量が変わらない川のような違和感に、呼吸が止まりかける。
「仮にそれが真実だとしましょう。なぜ彼女とやらはわたしに罪を課したのですか。わたしが、彼女に一体なにをしたのですか?」
「確かに、それはお前の罪ではない。しかしお前の血族が犯した過ちだ。お前はその責を負わねばならず、拒否権もない。俺はレイフを攫わせ、お前をこちらへ誘い込んだ。お前は死ぬか、生きたいならばその術を探さねばならない。しかしレイフも良質な贄になる。そいつは妖精の血を引き、妖精の眼を持っているからな」
レイフに妖精の血?──聞き慣れぬ言葉に、わたしは頸を傾げて言う。
「レイフはただの人間です」
「ああ。レイフはただの人間だが、その血には妖精のものが流れている」
レイフが先生に向ける目は鍋底から湧く泡を眺めるよう。まるで怯える様子もなく彼はわたしの腰に腕を回した。
「あなたは、ねえさんのせんせいですよね。ねえさんならばじぶんのいのちをすてると、知ったうえで言っている」
「ああ、そうだ。俺がそう仕向けた」
先生は一切表情を変えず、肯定する。まるでイヌのしつけと変わらぬように、息を吸うくらい自然なことのように。
元より非常に無愛想。いかにも寡黙で友達が少なそうな男とはいえ、そこまで常識のない人物ではない。そう思っていただけに──わたしが勝手ではあるが──裏切られたような、珠を引っ掻いたような不快感があった。
彼は確かに、子に言い聞かせるかのごとく先祖の罪について語っていた。しかしそれはそれとして、すべてがあまりに急である。
左手の傷が神経をむしばみ、レイフを腕の中で潰しそうになる。目玉が飛び出そうなほど、全身の筋肉も張り詰めていた。
気付けばわたしの足元には血の花が咲き誇り、蒸発した鉄が鼻孔や口腔を埋め尽くし、肺は隅まで錆びて動かない。
周りを見渡すと誰もおらず、ただ真っ赤な曇天だけが空を覆った。頭を垂れ瞼を閉じると、どろどろとした真っ赤な景色が広がっていく。経血の塊を丸呑みにしたような吐き気が鳩尾から競り上がり、わたしは口を押さえた。苦い薬を無理やり飲み干すように唾を喉に通したところで面を上げる。
血染めの部屋の中央で、一人の女が剣を研いでいる。象牙の剣先が、赤い光に当てられ鈍く赫いている。
オリーブ色の肌と黒髪が麗しい、悧発な眼差しの女である。他方、傍に置かれ、独りでに動く織機はなんと悍ましい。動脈の経糸、静脈の横糸、骨は骨。錘には亜麻色の髪を伸ばした男の生首が提げられている。その瞳は虚ろでありながら、未だ輝きを保っている。まるでそうあれと望まれたように。
足を一歩踏み出す。雨上がりの苔を踏む音が耳元で蠢く。あまりにも赤い光景に頭痛を覚えながら、わたしは剣を握ったまま女に誰何した。しかし振り向きもしなかったため、剣を引き抜いて振り翳した。刀身に付いた血肉が空を舞い、数滴服に付着する。躊躇わず剣を振り下ろした途端、目が弾けるような痛みに襲われた。
わたしは反射的に手を止めたが、目は頑なに開いていた。鉛と化した瞼をこじ開けつつ、ぎょろりと目を剝く女を見る。ウコンで染められた貫頭衣を翻し、節榑立つ手を伸ばしてきた。咄嗟に剣を振り下ろすと、女の鎖骨を打砕く。鈍く赤い血は、飛び散ること無く付着した。彼女もまた死者という証左であろう。
ただ眼前の女は琥珀色の瞳を向けていた。魂が人形劇のように、彼女の肉体を操っている。
これが木偶であれば
わたしは柄を握り締め、力任せにもう一つ振るおうとした。しかし女の手がわたしの手頸を捕らえたため、剣は半ばで止まってしまう。
「貴女は、何者だ」
わたしは剣を止めたまま問うたが、彼女は眉一つ動かさない。代わりにわたしを軽々と持ち上げ、乱暴に地面へ叩きつけた。衝撃で息が詰まり視界が一瞬暗転する。すぐに肘に力を入れ立とうとするが、今度は頭を踏まれまたしても地に伏してしまう。女は見た目によらぬ力でわたしを地面に押さえつけ、髪を掴んで顔を上げさせた。
「はな、せ……ッ」
女は右腕に手を伸ばし、両刃剣を奪おうとする。
わたしは断じて剣を離さずにいたが、女は容赦なく手首を捩る。痛みに耐え、負けじと歯を食い縛って抗っていたときだ。不意に背中から突風が吹き、刹那女の手が緩む。滑り落ちた剣はぐさりと地面に突き刺さる。
温くぬかるんでいた空気が一斉に凍り、わたしは咄嗟に目を閉じた。やけに眩しい瞼を開けると、レイフが腰に抱き着いていた。
「ねえさん! ねえさんしっかりして下さい」
「……レイフ?」
彼の頬に触れると、肌の熱が腕を伝う。
わたしが正気を取り戻したと同時に、あの血染めの部屋も消え去っていた。代わりに現れたのは、家畜の亡骸の山と草むらである。顔を上げそばにいた先生をじっと見ると、彼は小さく肩をすくめた。
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