⑯逃走


「今し方、お前はこの世界の核を見た」

「あの女性にょしょうが女神?」

「そしてお前の先祖でもある」

「つまり全ての元凶ですね。彼女が怒り任せに祠から剣を抜かなかったら、レイフたちもこんな目に遭っていない」

「色が一本足りぬだけで柄が変わる反物ように、運命も一つ異なるだけで異なる絵となる。つまりお前たちの出会いもこの災ありきの産物だ。女神は出来上がった設計図をもとに人生を編む」

 先生は窘めるように言う。これにはわたしも、ぐっと唇を結ぶ他なかった。改めて血に刺さった剣を抜くと、それは撓んだ苗木や枯れたツルのように容易く抜けた。先祖が引き抜いたときもこのような感触であったのか。かような思考を巡らせる間もなく、先生はそらに向かって一矢を放つ。


 これを合図にダヌヴェ人の群れが押し寄せてきた。そしてわたしの背に何かを見たように目を見開くと、膝を突いて祈り始めた。


「いまこのせかいをささえているのは、ねえさんのせんぞです。そしてかのじょのあがないのために、ダヌヴェ人はにてとくもつをささげていました。しかしそうはとんやがおろさないといいますか、かれはダヌヴェのちにほろびのときをもたらしました。これをおさめるためには、かのじょのまつえいそれにじゅんずるもこをいけにえにささげなければならない。さもなくばだいちがくさるようにしたしだいです」

 にわかに天下が翳り、わたしは空を仰いだ。


 薄い黒雲が倒れたインクのように広がっていく。背筋が凍る感覚を覚えて足を浮かせると、やにわに肥溜めと屍肉を掻き混ぜたようなあの悪臭が鼻を突いた。


 先生は手振で、仲間に指示する。トカゲの如き銀を鎧ったダヌヴェ人らはうやうやしくわたしの横を抜けると、死肉の山を解体していった。


 骨は柱に、皮膚と毛は幕、臓物は絨毯となるという。あの赤き織機のように、悪魔の所業と称されるに足る血腥い教会を立てるのであろう。


 かように思案するとあまりに恐ろしいが、いかにして逃げようか考えあぐねていた。すると一頭の黒馬が地平線の向こうから姿を現し、こちらへ駆け寄ってきた。馬上には誰もいない。ただ迎えに来たとばかりに、風のように向かってくる。


「あれは、さきのせいれい……?」

「ナジオン、か!」

 わたしは目を開くレイフを抱き上げ、ぐっと地を踏みしめて馬に駆け寄った。



 馬具はないが、先生より学んだ技により跨ることができる。それも故郷の淑女レディーたちが好むサイドサドルではない。


 かつて大陸をおびやかした、黄色い悪魔たちの騎乗である。早馬ならばどの婦人にも勝つ自身が、わたしにはあった。


 ダヌヴェ人らは気付くなり怒りの形相となり、生贄を逃すまいと剣を抜く。


 恐怖のあまり足がもつれる。けれども唇を噛み締めて走るしかないと踏ん張った。矢先、俊足の騎兵に襟を掴まれ、強く後頭部を殴られた。痛みに呻きながらレイフを庇っていたときだ。背中に激痛が走り、脇腹がにわかに熱くなった。


「あ゛っ……! ん゛、ぎいぃっ!」

 鉄火のごとき熱が走る。背中と脇腹の神経が千切れている。脳の血が、栓を失ったように引いていく。


 視界が揺らぐ。短剣で背中を刺されたと気付くまで、異様に長い時間を要した。熱い血が溢れる感覚と共に、どくどくという心臓の鼓動が全身に響きた。折角アカシアが編んでくれた服が裂かれ、赤く染まり、曇天から朝焼けへ変わっていく。


 背骨からせり上がった苦痛が、脳を支配する。呼吸をする度に肺が焼けるように熱い。視界が歪み、平衡感覚すら保つことが難しくなった。


「──!、────」

 レイフが顔を赤で汚しながら、脇から顔を覗かせて諫める。危険だ、やめろと制そうとしながら、剣を逆手持ちして男の右脚を突く。遮二無二に振るった刃は湿った音とともに肉を刺し、男は短く叫びながら仰け反った。


 更に荒い息遣いと軽い足音が迫り、背後の影を退けた。振り返った先、騎兵は例の黒オオカミに襲われ、必死に抵抗していた。


 無論他の兵士も迫っていたが、ナジオンは糞を撒き散らして騎兵らを怯ませ、わたしにさっさと背に乗れと促してきた。



 にわかに脳の血が帰ってくる。そして頭を振り、レイフを固く抱きしめながら、黒い馬に化けたナジオンの背に飛び乗った。左足で膨れた腹を蹴りつけると、彼は高く鳴いて疾駆する。


 黒馬の脚が地を蹴り割っていく。蹄が煙を散らし、道を掘る。

 手汗を握りながら、黒い鬣と柄をがっしり掴む。レイフは風に煽られ、飛ばされそうになるのを抑えていた。


 騎兵は追いかけてくるのをやめない。まるで狩人が獲物の喉笛に喰らいつくときを待つようにひたすら追う。激痛と緊張と恐怖で汗ばみ、心臓が早鐘を打つ。おそらく離れていないクリンショーを見つけるまでがやけに長い。


 まだかまだかとつばを呑んだときだった。

 一瞬だけ聞こえた風切り音に、刹那心臓が割れかけた。


「……あ゛っ!、ぐぅ……」

 一矢が左肩を貫いたのだろう。再び激痛が走る。首から後頭部にかけて迅速に熱が走る。しかし背中を刺されたときよりはましだった。歯が砕けそうなほど食い縛れば、耐えられる。


 とはいえふり向く余裕もない。気を抜けば落馬し、レイフまで怪我をしかねない。彼の名を呼ぶ声に頷いてから、もう一度ナジオンの腹を蹴る。


 二矢、三矢が飛んでくる。それぞれはナジオンの尻に刺さったらしい。彼も痛みに悶えて跳ね上がる。馬が揺れ、わたしたちの身体も揺さ振られる。わたしは必死に叱咤し、鬣を強く握って耐え忍ぶ。


「クソ……がァッ」

 左の肩口からじわじわと痛みが広がる。矢で傷が塞がれているのか出血は少ないと思われる。


 どちらにせよ諦めるという選択肢はなかった。レイフが射られないよう注意しながら身を屈める。


 四本目の矢がわたしの右胸付近を射抜く。思いっきり頭を殴られるような激痛が響き、あまりの苦痛に呼吸すら止まりかける。なおもせめて鬣を掴み、レイフを支える腕だけは緩めまい。


 ふと下を見ると、わたしのわたしの血がレイフの顔や肩を汚している。全く似合わない色を付けてしまって申し訳ない。でもすぐに洗えば落ちるはずなので許してほしい──そう思うくらいしか今のわたしにはできない。


 後ろから、蹄の合唱が聞こえてきた。騎兵らに追いつかれそうになっている。もうすぐ森に入れるというのにと舌打ちを打つと、彼らは驚いたような声を出した。



 つい後ろを振り返ると、何かに滑りかけたらしく、その場で軍馬が惑っている。一体何事かと地を見ると、ちょうどナジオンの後ろ黒い円が並んでいた。


 再び糞で怯ませていたのだ。そういえば馬が走りながら脱糞するさまを、わたしは一度見たことがあった。


 お陰で森の中に突入し、矢から逃れることができた。この森ならば木々が邪魔して狙いにくくなる。これ幸いと駆け抜けた。


 やがて前方に木がない開けた場所が見えてきた。絨毯に乗ったクリンショーが船を用意しながら待っていた。


 安堵のあまり、再び血が引いていく。レイフごと落ちるわけにいくまいと鬣をしっかり掴むが、結局血が足りずに身体が傾く。糸が切れたその身は、クリンショーに受け止められた。


「思いの外ひどい姿です。しかも剣まで持って帰ってきて。これは、帰ったら叱られてしまいますね。ああ、一体どれほどの時間を取られることでしょう」

 彼は大怪我をしたナジオンをよしよしと宥め、石ころに変えさせて懐に仕舞う。


「小さな白雪、君がレイフくんですね。エヴァンジェリンさんより伺っております。わたくしはホルスロンド王国の宮廷魔術師クリンショー。以後お見知りおきを」

「はじめまして、レイフ・ヴォーです。よろしくおねがいします。あと、そのけんはだいじなものなのでていねいに、です」

 安堵もつかの間のこと、森を迂回した騎兵たちの足音が迫ってくる。悠長にはしていられないが、身体に力が入らない。内心で舌打ち剃ると、クリンショーはレイフごと抱き上げて船へ運んだ。


「まったく、あなたは特に酷い怪我だ。ナジオンは自然から与る精で治りますが、あなたは、少なくとも肉体は俗人。そしてわたくしは名医にあらず、今の手持ちでは応急処置が精一杯」

 クリンショーは矢の両端を切り離して言う。

 背を刺され、両肩を射られたわたしは死に体であった。レイフは血で汚れることなど気にしていないとばかりにわたしに寄り添い、腹部の傷に手を這わせる。


「ずいからほねへ、ほねからちへ、ちからかわへ。うえにいちまいのはを」

 病は気からというが、確かに彼が触れた傷から痛みが和らぐ気がした。わたしはふっと笑って白い髪を撫で、彼に話しかけた。


「レイ、フ。きたないからあまり、さわるな、よ……」

 口では咎めたが、正直満更でもなかった。レイフはクリンショーからもらった麻酔薬をわたしに飲ませ、嚥下する退屈なさままでじっと観ていた。


 強い酒精と苦味が舌を覆う。酩酊。胃へ到達した薬はただちに神経の支配権を奪い、意識は湖に沈んだときよりもぬるく、ゆっくりと、沼に落ちていくようにおぼろとなる。


「なるほど、女王が言っていた妖精の子。行幸です。舵はわたくしとナジオンで取りますのでどうか、しばらく安らかに」

 クリンショーの薬によりわたしはかつての飼いネコのように、死んだように眠りにつく。レイフは言葉を編み続けていた。


 テムズ川に落ちた亡骸のような気分で、しばし暗澹に微睡んだのだ。




「ま、ひどいお怪我だこと!」

 固い沼の底で、鈴のような耳に心地よい声を聞く。今度こそは、わたしが知る誰のものでもない声だった。

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