⑰反魂


 それは生まれてはじめて見る明晰夢であった。


 まるで寝て起きたかのように意識は明白で、冷水を飲んだように冴えている。


 記憶の混濁や置換もなく、かえって気味が悪いほど確かな夢の淵にて、わたしはやおら震える瞼を上げる。まず見えたものは、病室を思わせる石の天井。うつろなまま左肩と右胸に手を遣ると、矢は全て失くなっていた。


「あらあら。小さいのにひどい怪我です。でも麻酔は済んでいるようですね。さて、今からお怪我の治療を始めます。肩の力を抜いてくださいな」

 そしてその中で、碧眼の女神か、戦乙女と目が合う。脇まで伸びた黒髪を左肩でまとめた彼女は、春を迎えた花が開くようにんで言った。


 目を覚ましたわたしは石の寝台で横になり、綿の布団が掛けられていた

 四方は石。小さな鉄格子から注ぐ陽光が眩。空気は程よく湿り、カモミールの香りが緊張を緩める。その横で、緑の黒髪を結った女人がわたしの額を撫でていた。


 その人は青水晶の瞳を持ち、金の馬が刺繍されたクリーム色の貫頭衣チュニックをまとっている。笑顔は桃色のバラのように淑やかで、声は鈴の音のように優しく軽い。唇は今まで見たことがないほどなまめかしく、黒子も相まって目を奪う。


 絹から覗く白に胸が高鳴る。まさに女神のごとき美。魚は沈み、ガンは落ち、月は隠れ、花も恥じてしぼむほどの美。とても手の届く美貌ではなく、歴戦の勇者しか触れられないような高貴な美。

 それでいてこの世のあまねくを癒さんとする母性を孕んでいる。


「あなたは」

 拙く尋ねると、彼女は花が咲いたような笑みを浮かべる。




「ただのしがない女医です。……すみません、一回目隠ししますね。麻酔を投入したといえど痛くすることに変わりはありませんから」

「えっ、えぇ……」

 彼女は美しい顔を寄せたと思いきや、細長い布でわたしに目隠しをする。


 ワゴンから聞こえる金属音に、つい身体が強張った。

 人生初の治療行為。自分の体へメスが入るのだと思うと、いくら美しく親切な女医相手でも緊張を抑えきれない。震える身体を宥めるように、彼女は優しく髪を撫でてくれた。


 その手付きはトゥースネルダよりも離れて久しい母に近く、懐かしさのあまり目尻が熱くなる。彼女に治療されている間、わたしは鈍い意識に朦朧とし、なお残る激痛に歯を食いしばっていた。


 女医は定期的に声を掛け、息も絶え絶えになって耐えきったことに称賛の言葉を与えてくれた。痛みは想像を絶するほど辛かったが、塞がった傷を前にした感動に比べれば耐えた甲斐がある。

 彼女はわたしの血で染まった布を捨て、器具を消毒しながら言う。


「すべて内臓を外していたのは幸いでした。しかし左肩は大動脈を断っています。しばらくの間、激しい運動を控える他、左腕を使わないようお願いしますね」

 女医の指示に、わたしはゆっくり頷く。美しい彼女にしばし見惚れ、はっとする。酔いと激痛のせいですっかり忘れていた。



「ここと、……あなたは? なぜわたしを治してくれたのでしょう」

 私の問いに、彼女は丁寧に答える。


「ここは、夢現の世界とでも思ってください。実のところわたくし自身、具に理解していないのです。少なくとも誰かが魂を呼んで、あなたを治療させた。それだけなのです。あと、わたしですね。わたしはエオファと申します。貴女の祖の一人であり、ブリトン人の英雄を殺した裏切りの魔女。どうぞ気軽に、おばあさまとお呼びください」

 彼女は憂いを帯びた表情を浮かべ、青い、ゲルマン的な目を伏す。ブリタニア──今のウェールズの英雄とはアンブロシウス・アウレリアヌスかと尋ねると、女医は控えめに肯定した。碧眼が物憂げに伏せられる。


 彼女にとって、その名前を口にすることは禁忌かもしれなかった。わたしは謝ってから、思案する。

 かのアーサー王の伝承元の一人とされる、ローマ人の血を引くブリトン人の軍団司令官。ローマ皇帝の血筋の証である紫の外套をまとっていたという。


 彼の最後は大抵の文献には載っていないが、ある偽史では医者として忍び込んだサクソン人エオファによって毒殺されている。


「……エオファ、さん」

 偽史ではヒゲのある男性だったが、本当はこんな美女だったのかと驚嘆する。


「はい。エオファ・アルトリウスです。……そろそろお眠りください。あと、無茶ばかりしてご友人を悲しませるのはおやめくださいな。帰ったらちゃんと、謝るのですよ」

 なるほど道理で英雄もあっけなく殺されるのだろう。いかなる益荒男も男である以上──性欲をほぼ持たない場合を除いて──本能を刺激されると弱ったり、毒を盛られたように鈍るものである。


 彼女は席を立ち、額に接吻する。右半身から感じるもちりとした乳房の感触に顔を熱くしながら、意識が遠くなる感覚をゆっくり味わう。

 そのまま、わたしはまた闇の中へ落ちていった。


「さよなら、あの人に似た小さな我がすえ。もうこんな傷を診ないことを祈ってます」

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