⑱再会


 わたしが再び目を覚ましたとき、瑞瑞しい緑の香りと、朝焼けとぬるい雨が頬に落ちた。


 雨にしては顔ばかりに落ちてくるそれに、違和感を抱く。動く右腕を下に敷かれた布に這わせると、またぼとりぼとりと落ちてきた。


 風が熱をさらい、ぬるい雨がにわかに冷える。

 逃げるメダカのようで、若干の寂寞を覚えてしまう。


「え、ヴァン……! エヴァン!」

 上からの聞き慣れた声がした。クリンショーが寝かせていたのではと、しばし驚き、すぐに横着は止そうと目を開けた。


 木漏れ日が優しい視界の先、なんとなく察していた景色に、また力が抜ける。雨はまだ、止みそうになかった。


「エヴァン。あぁ……よがっだ……。ほんどによがっだよォ……!」

 わたしは例の湖のそばに寝かされていた。

 眼前では大粒の涙を流すアカシアの顔が視界を覆う。彼は目や鼻をトナカイみたいに真っ赤に、文字通り泣き腫らしている。


 ホルスロンドに来て三度目の泣き顔は、今までで最もひどいものであった。


 「なさけねぇ顔」と吐き捨てようとして、止めた。


「すまなかった」

 代わりにささやかなものだが謝罪の言葉を送ると、彼は顔を歪めて、大型犬のように覆い被さってきた。


 重い。熱い。暑苦しい。しかし、どこか安心する。右手で彼の後頭部を撫でると、彼は取り替えられていたわたしの服を、再び濡らしてしまう。


「もう起きていたんだな」

 クリンショーはわたしが帰るまで起こさないようにしていたが、気絶している間に目醒めたようだ。


 右腕で半身を起こそうと力を入れるが、右胸と腹部の鋭い痛みに阻まれて叶わない。


「おい、すげぇ大怪我してんだから無茶すんなって」

 心配そうな表情をするアカシアはわたしを寝かせ、ひょうたんに入った水を飲ませてくる。柑橘類が入っているのか、ほのかに爽やかな味がした。


 持ち帰った剣が見当たらないことが気になったが、アカシアに聞くのは煩わしい。


「あー、あんたが編んだ服台なしにした。それについても悪い」

「服なんてどんだけでも編んでやっから気にすんな。今はいっぱい休んで、帰りに備えようぜ。レイフも心配して、わけ分かんねぇ言葉かけてたぞ」

 彼いわく、レイフは兵舎で診察されているという。多少の肌荒れや髪の痛みが見受けられる程度で、健康状態に大きな問題はない。白くて幼い姿は人目を引き、好奇の視線が痛かったと彼は語る。


「アーサリン女王は?」

「港で戦ってる」

「……ダヌウェ人とか?」

 その問いに、アカシアは気まずそうに頷いた。


「エヴァンたちが到着してすぐに来たらしい。今はトゥースネルダさんの軍と沿岸警備隊が相手してるってさ。正直オレたちの出る幕じゃあねぇ」

「元はといえばわたしがレイフを取り返したせいだ。できることがあれば……」

「その怪我で何ができるんだ? なあ、これ以上オレを心配させないでくれよ!」

 アカシアは声を上げると、ベッドに座るわたしの肩を強く掴もうとした。


 しかし肩の怪我に気がつくとすっと止め、代わりに手を優しく握ってくる。アカシアの手は前より荒れ、擦り傷だらけ。爪の間にも砂が埋まっていた。


「悪かったって……、で、クリンショーさんはどうしてる?」

 アカシアは相変わらず、彼の名を出すと気分を悪くする。


「あいつ? あいつならエヴァンの護衛を怠ったって叱られてた。あとは知らね」

「怪我についてはわたしの判断ミスもある。危うくレイフまで怪我させるとこだったんだ。後で伝えとかないとな」

「必要ないだろ。オレ、エヴァンがいないってわかってまじで、さ……」

 アカシアはまた鼻水を出しながらぐしゃりと顔を崩し、袖でぐしぐし拭っている。わたしが彼の首に腕を回すと、アカシアは抱き締めてきた。


「あら、起きたのねエヴァンジェリン」

 やがてアーサリン女王とラルフが、南東の道から現れた。わたしはすぐに身を起こして視線を合わせたときである。


「おかえりとっとこ馬太郎!」

 ボフッと両頬が茶色毛玉に包まれる。もこもこな両手がパン生地をこねるように頬をもてあそび、全ての表情筋が腰を抜かす。


「あなたを送り出したのはレイフを取り返す点では正しかった。けどその大怪我は想定外ね。思いの外早く起きたアカシアがあなたを見てどうしたと思う?」

 彼女は少々不機嫌な様子で問いかけてくる。

 目を丸くしていたであろうわたしはアカシアを一瞥してから、求めるようにおとがいを下げた。


「あいつは錯乱して、石をナイフにして自分の首を切ろうとしたの。幸い近くにいたラルフが押さえてくれたけど、手は余計な傷で荒れてたわ。あなたにとってのアカシア以上に、彼にとってあなたが大切なの。 あなたがいないと生きていけないというのは、ちっとも方便ではなかったのよ」

 深淵まで覗き込んでくるような黒い瞳。原始的景気に映る大きな洞穴のような黒である。


 おおざっぱな関係を見抜く慧眼には、見覚えがあった。くり抜けば至高の宝玉になり得る瞳を、レイフも持っていた。


「女王は、レイフに会いましたか?」

 わたしが問うと、彼女は何度も首を縦に振る。


「ええ、紫の瞳に白雪の肌。あれがアルビノというものね。妖精の気配もあったし、ダヌヴェ人が神秘を感じるのは無理もないと思ったわ。それと」

 女王はわたしから手を離すと、木陰に控えていたラルフを呼んだ。彼の腕にはあの黒オオカミがいたため、わたしはこれについて女王に問おうとした。しかし先に口を開いたのは彼女であった。


「彼女がレイフを攫ったオオカミで違いないわね?」

 わたしが肯うと、彼女は刹那口を結んでから続ける。


「彼女はウルヴァ。ラルフの母で、わたしの育て親。去年の戦でダヌヴェ人に殺されたはずだけど、どうやら呪術で死体を操られていたようね。……今はダヌヴェ人の手を離れて、先ほど魂の供養を終えたところよ」

 母の亡骸を前にしてか、ラルフは心ここにあらずといった様子で死体をわたしこそばに置いた。


 改めて見た黒オオカミもといウルヴァはもう何週間もエサにありつけていなかったかのように痩せこけ、もこもこに見えた体毛は炙られたように縮れている。顔は白目を剝き、むらさき色の舌が力なく垂れ下がっていた。


 皮肉なことに、あの元気な姿は敵の手にあることで保たれていたらしい。


「彼女はレイフの手で一時的に正気に戻っていたの。おかげで息子に、ラルフに別れの挨拶ができたみたい。とんだ行幸だったわ」

 女王のもこもこした身体がラルフの腕に収まる。彼はいと尊きもふもふを丁寧に撫でて母の死に対する悲哀を癒やしているようにうかがえる。


「小娘」

 ラルフは初めて、声に出してわたしを呼んだ。喉奥から空気を噴き出すような嗄声である。彼は白い犬歯を剝き、アカシアよりずっと大きく太い指でわたしを指した。


 その顔は憤怒な嫌悪を油で煮込んだように赤く、今にも我が首を刳るのではないかと思うほど。


「敵にけがされし我が母を如何に思う」

 レイフを攫った黒オオカミが操られた母であったことに、彼は酷く落ち込んでいるのであろう。その声色は懺悔室で罪を吐く哀れな刑徒せきびのようである。


 わたしは息子の面前で母を咎めるほど無遠慮で在るつもりもなかったし、本人の意志に因るものでないのならば殊更不要なことと断じて否定の意を示した。するとほんの僅かだがラルフの肉の糸が撓み、その場で母の亡骸を爪で裂いた。


 アカシアは突然の血飛沫ににわかに怯んだが、すぐに視線を戻した。ダヌヴェ人と同様、常に今際の際に立つ貧者にとって略奪とそれに伴う流血は然程珍かなことではない。


 夏の太陽が影を一層黒く染めるように、綺羅びやかな世ほど闇も濃いのである。


「下方は母を殺したばかりか死してなお辱めし人馬どもを悪む。己は弟を攫った彼奴らを如何せんと望む? くだくだに刻み挽き肉にせんと望むならば我が母の無念を背負うがいい。倅たる下方が許す。女王、許しを希う」

 アーサリン女王は手元を母の血で濡らしたラルフを咎めるように手もとを甘噛した。しかし彼女は側近の心情を鑑みてか、やがて首を縦に振って許可を出した。


 それからウルヴァの身が血と骨と皮に別けられ、わたしの体格に合わせてアカシアが外套として裁縫するよう命じられた。アーサリン女王が何本の矢を射られても無傷であったように、純粋な妖精の毛皮は見た目以上に硬く靭やかであるという。


「なあ、エヴァンに着せて何させるつもりなんだ? たたかわせるなら、おれはやらない。ぜったいだ!」

 アカシアは語気を強めていった。対してわたしは念のためだと誤魔化そうとしたが、女王がそれを遮った。


「レイフの護衛はエヴァンジェリンよ。つまりレイフを確実に守るには彼女の防備を固める必要がある。これはそのための措置よ」

 アカシアは納得していないというふうに俯いたが、丸腰は避けるべきと言われれば黙り込んだ。


「話したいことはいっぱいある。でも、今のエヴァンジェリンにはきちんと休んでもらうわよ。強引にでもね」

 

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