⑳昔語

 澄んだ煙の臭いがする。油混じりの、都市の煙とはまるで違う臭いがする。


 不安がるウマを窘めながらウィートヒル中央へ向かい、警備の横を走り抜けてレイフを探した。手で廂を作り、向かいを見る。ナジオンはわたしが来ることを知っていたかのように、モルフォ蝶の姿ではちみつ館の屋根に留まっていた。


 はらりと蒼い羽が舞う。太陽より目を奪うほど美しい羽が機敏に羽ばたき、彼はついてこいとばかりに背を向けた。もう一度ウマの腹を蹴って向かった先は、北部との境目──黒き山脈ブラクビョルグ


 寒波から身を守るために葉を縮めた針葉樹たちが群れるさまが、まるでインクのように黒く濃い影を生むホルスロンド最大の山脈。多雨多雪かつ良質な水がよく取れるため、『キャティー・オ・ダヌー』傘下の浄水製造ギルド『リーフ・オ・ワーター』が土地の多くを領している。


 山林に入ると時間と空間すら失いかねぬほど暗い闇が空を覆う。まさに墨染。手前にいるナジオンを見失えば、たちまち帰り道が融けてしまうであろう。わたしは何度も彼に声を掛け、はぐれないよう努めていた。


 寒冷かつ山がちなため遊牧民であるダヌヴェ人の足止めになるだろう。無論わたしも歩を緩めるが、山岳にも慣れた子なのかすいすいと登っていく。


 長いこと山道を登り、ようやくてっぺんに光が差し込んできた。ウマの足に負担をかけぬようゆっくり進むと、見覚えのある影が手を振っていた。背後の木漏れ日が逆光となっているが判る。クリンショーである。


「ご無事で何よりですよ。あなたなら必ず、傷が開こうともレイフくんを守りに行くと思いナジオンを遣わせました」

 彼は領主に許可を貰い、ギルド内でレイフを匿っていたという。


「しかし此度のダヌヴェ人は油を撒いたように激しい。当に炎の嵐です。貴女が大人しくレイフくんを生贄に捧げば、かようなことには至らなかったでしょう」

 とんだことを吐くクリンショーを睨むと、彼は呆れたように頭を振る。


「人は合理より感情を優先する悪い癖があります。クリンショーさん。あなたが恋をして流されたように」

 かように返答すと、彼は不快だとばかりに鼻を鳴らした。一見道化のくせにつくづく俗っぽい男と、わたしもつい鼻で笑ってしまう。


「わたくしは素早く狩られた害獣ですが、あなたは違う」

「ええ。アーサリン女王には恩を仇で返すことになってしまった。このままレイフを連れて帰るだけなど到底認められないでしょうし、わたしとしても後味が悪い」

 馬を引いて歩み寄ると、葉の隙間から鈍色の光が差す。銀箔を貼り付けた空は少しだけだが、故郷に似ていた。


 ギルド領内は木版ではなく有刺鉄線が張られ、黒と灰の景色が物々しい。建物の外側にはいくつもの樽が並べられており、中から大小様々な水音が聞こえてくる。


 きょろきょろと木々などを見渡していると、クリンショーがわたしの顎を掴み引き寄せてきた。

 思いの外力が強かった上、背丈の差があったため踏ん張ることは難しい。一、二歩ずれた先で、彼は呻りながら見つめてきた。面紗が重力に従って下に垂れ、初めて、わたしは泥炭のように黒い目を見た。


 逆さにした扇のように広い鼻。浅瀬のごとき眼窩。アーモンドのような目。そしてチョコレートのような褐色肌。平坦でありながら濃い顔立ちはホルスロンドのものでも、ダヌヴェのもの決してない。


「腐った乳のような、不純な香りが少ししますね。ダヌヴェ人から出された食物にまじないが掛かっていたのでしょう。生者が冥府の食物を口にしてはいけないとよく言うように、他所の国の生水は飲まないほうがいいのですよ」

「具体的にお願いします」

 わたしは淡々と尋ねた。彼はこの素っ気無い態度を前にしてもそれ以上機嫌を損ねた様子を見せず、むしろ愉快そうに目を細めてから口を開いた。


「まあ、要するに異界に繋げるための薬といいましょう。おそらくダヌヴェ人にとって貴女は神事かむわざを司るかんなぎなのです。貴女を逃したのは恐らく、獣を苦しめるほど肉が美味になるのと同じ理由……」

「なぜ、わたしを助けたのです?」

「貴女を死なせるなと、女王より命がごさいましたので」

 フナムシの手が顎を伝う。わたしはいかにも面白くなさそうな表情かおをしているであろうに、彼は少しも目を逸らさない。彼は刹那目を開閉すると顎を放し、指先で面紗を整えた。


「実はですね。ダヌヴェ人の狙いが貴女と知ったあたりから女王に調査を依頼したのです。なぜ貴方はホルスロンドの湖から出たのです? もしや本件には我々も関わっているのではと考えたのです」

 彼は揺蕩うような手招きをし、施設内へと入っていった。

 施設の待合室では、レイフが袋に入った水を飲んでいた。藍で染められた綿の貫頭衣を着、少し脆くなっていた靴も革のサンダルに替えられていた。両隣には犬を模した毛糸の人形が置かれている。ここの人たちは彼をよく可愛がっていたのであろう。


 彼はわたしを見るとすぐに袋を置いて駆け寄ってきた。わたしは膝を折って両腕で受け止めると、小さな腕が首に回された。健気な少年の喜びは胸のうちに募っていた不安を朝露のように消していく。力が強すぎたのかもぞもぞと蠢くレイフを放すと、クリンショーが手を叩いて語りだす。


 むかし、むかしの話をください。

 では、むかしの話をいたしましょう。

 これはわたしの言葉にあらず。先祖より伝わった言葉です。


「これはわたくしの故郷の言葉です。ま、これから話すのはホルスロンドの話ですがね。どうかお聞きなさってください。ダヌヴェ人の横槍を免れるために彼をここに連れてきたのですからね」

 咳払いが一つ、空気を弾く。


 ホルスロンド王国のはじまりは約三百年前───精霊歴六十年、建国王ホーサがイルミン人を纏めてこの島を作りました。

 これより六十年前、即ち精霊歴元年、大陸を蝕む大災害が実に長きこと大地を荒らし、人を蝕み、それはそれは多くの人が亡くなり、多くの国々が滅びました。そう、イルミン人とダヌヴェ人はこの大災害を辛くも生き延びた、数少ない民族なのです。


 しかし大災害の餌食となった地域は呪われ、人が住めなくなりました。ダヌヴェ人は故地に残ることを選びました。一方イルミン人は大災害による遺骸を海に積むことで島を作り、そこに住まいを構えました。


 にわかに信じがたいことでしょうが、この島は大災害の犠牲者らの死体の山であるのです。


 もちろん呪詛まみれになるはずのそれを、王は巧みな魔術で凌ぎました。己一人で呪いを背負い、死してなお墓場──東の妖精山で呪詛を濾過し続けているのです。しかし無論、限界はあります。ホルスロンドの民は残穢により、島の外に出られなくなりました。


 また、王の力は特殊な精霊を生み出しました。本来の精霊は自然のうちに生き、人との積極的な干渉など好みません。しかしここには女王やラルフのような人語を解したり、果ては人と子を成すような特別な種がいます。


 もうお察しでしょうが貴方達が経由したのは妖精山の湖です。あの偉大なる建国王は、もしや、もしや貴方か、貴方の先祖と関わりがあるのかもしれません。


 語り終えたクリンショーは立つ鳥を見送るような仕草をしてから、外套を翻して我々を見た。わたしが彼の肩にいたヘビ姿のナジオンを一瞥し、深慮もなくそれについて尋ねてみた。


「ナジオンは自然由来の精霊ではありません。彼は、わたくしの故郷の言葉で悪霊──アンガトラと呼ばれるものです。要は正しく祀られなかった霊の集合体。更にその変異種です。本来は地を蝕むあやかしですが、わたくしが調伏し、使役化した次第です」

「固定した姿を持たないのは、元が霊の集まりだから?」

「御推察のとおりです。補足いたしますと、彼は今もなお周りの魂を捕食しております。ゆえに元々わが祖国にいない馬などに化けることができるのです」

 わたしの好奇心が居直ったところで思案する。

 先生の言葉通りであるならば、神を満足させれば全て終わる。そして彼女の怒りを鎮めるには

わたしが生贄になる他ない。なんの代案もないならば、だが。


「クリンショーさん。あなたはレイフからなにか聞いていますか? 」

「ええ。もちろん。ダヌヴェ人の事情や目的。あなたとの関係などなど、つぶさに教えてくださいましたよ。歳の割に口は達者ですね」

「では、彼だけは必ず守っていただきたく思います。本件の責任は全てわたしにある。彼のことはどうか」

 深々と頭を下げ、ゆるりと上げる。クリンショーは外套の下からダヌヴェ人の剣を出し、わたしの右手に握らせた。かつて御神体であったことを知ったゆえか、握るだけで悪寒が走る。どこの教会に行っても、ここまでの御稜威は感じない。


「文字通り死ぬ気で成し遂げます。……先生も、先祖も、レイフを巻き込んでくれた。腸が煮えくり返るとはまさにこのことでしょう。これは一発殴らないと気が済まない」

 水面に集う稚魚を散らすように、剣で地を突き刺す。すると薄氷うすらいと暁が瞼の裏に投影された。何奴の記録か誰何すれど、人の影、何処にも在らず。


 あの美しき女医エィルは、まだ、わたしの中にいるだろうか。


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