断章



 眼前は足元から地平線まで潰れたアリのような点に覆われていた。空は琥珀を溶かして流し入れたように黄色く、背の低い草で覆われた大地も一本一本が黄金で作られ、はちみつの湿気で脈を維持しているようなさまである。


 女郎花色の太陽に照らされる地を見下ろす。見下ろして、瞼の皮膚を吊らせた。氷の中で眠る魚のように、老若男女、無数の亡骸が苦悶の表情で埋まっていた。彼ら彼女らがクリンショーが語る厄災の犠牲者であることは想像に難くなかった。


 錆びた土塊の臭いが鼻孔を抜け、泥濘とした生温い風が草葉を折る音を運んだ。細かな高温とともに背に向けて目を遣ると、赤毛のオオカミがそこにいた。此奴は先生であると、わたしの直感が呟く。


 二頭のオオカミを連れるヴォーダン。姉弟──太陽ソルマーニーを追う二頭のオオカミ。フェンリルに、猛きウルフヘジン。

 わたし含むゲルマン人にとって、オオカミは力あるものの象徴の一つである。


「実はダヌヴェ人にとっても、オオカミは重要な獣なのですか」

 尋ねた直後にあることを思い出し、咄嗟に言葉を足す。


「……そういえば遊牧の民、モンゴルのテム・ジン。彼は、オオカミの子孫でしたか」

蒼いオオカミボルテ・チノのことだな」

 先生はオオカミの姿のまま答えた。


「また烏孫の王子である昆莫は雌オオカミの乳で育った。オイラトのジャンガルも、ラマ僧ジャムブル・ジョンツイも然り。草原の民は鳥やオオカミを祖霊トーテムとした。そして周期的にオオカミ男となるネウリ族に、彼らの隣人であったスキタイ人とサルマタイ人もまたオオカミを権力者の象徴としている。……ある程度教えたつもりだが、忘れているところも少なくないようだな」

 生憎わたしに、レイフほどの記憶力はない。

 彼は刹那鼻を鳴らすと、わたしの腿を小突き座らせた。にわかに、講義の時間を想起する。まだここに来て一週間足らずというのに、やけに久しい気がしてならない。


 背に手をつき、足を延ばして空を仰ぐ。先生にこの場所について尋ねると、彼は剣の記憶であると答えた。


「先生」

「なんだ」

「わたしをその神の前に連れて行くことはできますか」

「確かに俺は女神の神官エナレイだが、流石に限界がある。あらゆる呪術にも規則があるようにな」

「クリンショーさんはわたしの魂から祖先の一人を呼び寄せ、この身を治癒させました。彼がこの世界において途轍もない呪術師でない限り、同じことが可能な者はいるのではないかと」

 できるだけ毅然とした態度で尋ねると、彼はフクロウの眼をにわかに虚空に遣って息を吐いた。即答しないあたり、不可能ではないのであろうか。かように尋ねると、彼もまた疑問を呈した。


「流血は必要だが、それでよいならば」

「元はと言えばダヌヴェ人がレイフを攫ったことがことの発端です。なればこそそちらも相応の対価を払うことが道理では」

 彼は再び目を背けた。

 これは、ぐうの音も出ないと言ったところであろうか。彼は暫しの沈黙の後にこれを肯う旨を伝えた。


 神官にとって重要であるのは、神の意志に準ずること。民の犠牲など二の次である。


「彼女は否応なしに死肉の祭壇に祀られ、己の子孫が祖国に手を掛けるところを目の当たりにした」

 彼は再び口を開く。赤い毛が陽光を反射し、まるで草種を殺す火のように、燃え盛るがごとく靡いている。


「今度はお前が血脈を絶ち、血染めの女神は滅びを見る。手を伸ばせど届かぬ水晶の奥の景色に、彼女は憂鬱に暮れる他ないのだろう。しかし」

 彼は口吻マズルをこちらに向け、半分だけ白目を見せて言う。珍しく、関心を抱いたような眼差しであった。


「レイフに深い愛を抱くお前ならば、その切実たる想いと怒りを以て宿命に抗えるやもしれん。何せあいつは──」

 いかにも重要そうな音は、刹那吹く微風に消えてしまった。


 本がやにわに閉じられたように、わたしは馬上の夢から醒めていた。


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