現パロ② 晴天、二人乗り

※過去のKAC作品をちょっと変えたもの

 




 英国の空は実に気まぐれ。

 特に冬はころころと表情を変えていく。


 しかしそれゆえ、たまに見せるご機嫌な表情は心做しか愛おしく見える。


 どうせすぐに雨天になろうが、にわかに咲ってくれることに意味がある。如何なる花も散るからこそ美しいことと変わらないと──紅と金糸の窓掛カーテンを開き、エヴァンジェリン・シャーウッド(以下エヴァン)は|枕元に置いたシャツに袖を通した。


 燦々と輝る天の花嫁はずいぶんと機嫌がいい。窓の向こうには凪いだアイリッシュ海が青い裾を広げている。


 ホテルからはみえないが、ダグラス湾方面には聖メアリー島に聳える「避難所の塔」がある(19世紀前半に建てられた「避難所の塔」は、その名の通り難波船を救助する目的で建てられた)はずのだろう。


 ブリテン島とアイルランド島の間に立つマン島の港には三脚巴の島旗がそよ風に泳いでいた。まるで金魚のように、さざなみの間を縫って泳いでいる。


 彼女は今、二人の同居人とともに島の行政中心地であるダグラスのホテルに宿泊していた。


 ヴィクトリア王朝期風のホテルで迎えるには実に良い朝である。まるでここが遥々エディンバラからやってきた我々を労ってくれるよう。後で近所の教会カークに赴かねばと、エヴァンは諸々思案していたときのこと。


「おはようございます、姉さん」

「ん、ああ、おはよう……」


 虚ろになって外を眺めていたせいで、背後から挨拶への応答が遅れてしまった。振り返ると連れの一人の寝顔、そしてその側に立つもう一人の姿が映った。


 声の主である白皙巨躯の青年レイフ・ヴォーはエヴァンの同居人で、彼女らをマン島に連れてきた張本人である。


 彼は既にフォーマルな私服に着替えており、手元にはサービスで置かれていたドリップコーヒーが握られている。


「約束の時間は何時だっけ?」

「十時半です。待ち合わせ場所は此処から歩いて半刻ほどらしいのですが、もう少し早く出るつもりです」

 サイドテーブルに置かれた時計は七時半を指していた。


「そうだな。初めての場所だし、いろいろ目を奪われがちだし、早い方がいい」

 彼の目的はマンクス・ゲール語の研究である。


 大学の課題である言語学の論文を執筆するため、なんと現地の元教授と連絡を取って渡島したのだ。加えて同居人二人まで誘い、三人分の部屋の確保まで行った。


 幼き日のレイフを知るエヴァンは偉大な行動力に感嘆しつつ、快く有給を取ってダグラスへ赴いた次第である。


 ところでアイリッシュ海に浮かぶマン島は、アイルランドの巨人がスコットランドの巨人に向けて投げた岩から生まれたという。


 両親からゲール文化(嘗てはケルト文化と呼ばれたが、彼女としては不適切な呼称である)を継いだマン島は、後に襲来したノルウェー・ヴァイキングの文化にも馴染み、やがて王室属領──連合王国イギリスのパートナーとしての地位に収まった。


 複数の王国の支配を経験したマン島は、当然独自の文化を築くこととなった。レイフの目的であるマンクス・ゲール語はその一つ。


 もっとも、連れであるエヴァンらは専ら観光目的だ。マン島にはゲール人だけでなく、ヴァイキングやキリスト教徒が遺した建造物なども多く残っている。またマンクス猫やロフタン羊など、マン島特有の動物も見たいと、彼女は望んでいた。


 後ろで小さないびきをかいている青年ことアカシア・オニールを叩き起こすと、彼は布団を細長い脚で抱き締めた。


「朝だぞ起きろ。かわいいレイフとわたしを待たせるな」

「姉さん。僕は」

「そういうことにしておけということだ」

 エヴァンはアカシアが眠る寝台に乗り上げ、やや無性髭が生えた顎や頬を弄り始めた。


「えゔぁん、もうちょい寝かせろょ……」

「あとちょっとでレイフが出かけるぞ。それとも朝食は一人で取るか?」


 脅すように言ってやれば、アカシアは年甲斐もなく頬を膨らませて起き上がった。チベットスナギツネのような表情には不本意にも笑ってしまうが、膝に着替えを置くと緩やかに手を伸ばしてくれた。


 彼が着替えを終える頃、時計は十分ほど進んでいた。空は次第に明るくなる一方で雨が降る様子はない。

 降りみ降らずみな一帯にしては実に安定した天気である。


 アカシアが髪のセットをしている間、エヴァンはレイフと同様にドリップコーヒーを開けて一服していた。


 マン島の地図を広げ、目的地を改めて確認していたときだ。支度を終えたアカシアが頭上からにゅっと顔を覗かせた。やっと用意を終えたかと、エヴァンは地図を閉じて目を合わせた。


「忘れ物は無いな?」

「問題ないぜ。レイフも準備を終えたし、さっさと朝食に行くぜ」

「ああ」


 組んでいた脚を解いたエヴァンは、弛んでいた服の裾だけを伸ばした。起床から珈琲しか入っていない胃は、栄養を求めて唸っている。


 朝食を終え、教会で祈祷を終えた頃に外を出ると、駐車場の石畳に無数のしみが作られていた。どうやら朝食の間に驟雨が降ったようだ。微睡みから覚めた北風は活気を取り戻しつつあり、寒さが針のように肌を刺してくる。


 間もなくレイフの背を見送ったエヴァンは、ホテルの入口付近に立っていた。

 彼は渡島前にあらかじめバイクだけをホテルに送り、旅行の足にすることを彼女に伝えていた。


 ところでこの時、兄弟に等しい二人の間にとある問題があった──交通費である。


 エヴァンはアカシアのバイクを足にする。ゆえに運送費と交通費の半分か、それ以上の負担をアカシアに求めていた。


 一方でアカシアは自身よりも収入が低く、かつレイフの世話に携わっていたエヴァンに払ってもらう金は無いと主張した。


 しかし経済的理由に彼に負担を強いれないと、エヴァンは引かなかった。話は渡島前に一度保留となっていたが、このまま流されるつもりは毛頭ない。


 此度、エヴァンは白黒をつけるための策をねっていた。その為に必要なものも、既に手元に用意してある。我ながら頑固だと自嘲しつつ、しかし親しき仲ゆえの意地があった。


「おう、待たせたな。これお前のぶん……。て、なんだ、それ」


 バイクを連れて戻ってきたアカシアがヘルメットを手渡すと、エヴァンはやにわに視線を向けた。その手が握っていた缶コーヒーと白いハンカチを見つけたアカシアは、案の定怪訝な視線を向けた。


「アカシア。まだ交通費について決まっていないことがあったな。まずはわたしの話を聞けよ。今、ここに、わたしの手元にあるもので賭けをする」


 いかにも面倒くさそうに口を挟もうとするアカシアを力強く牽制しながら、エヴァンは賭けの内容を一通り説明した。


「実にシンプルだ。缶の口を開けて、白いハンカチで頭を覆う。これをバイクに乗せて、目的地まで汚さなかったらお前の価値だ。金については、潔く任せる」

「それは分かったけどよ……中身、少し飲んでいいか?」


 運転には自信があるとはいえ、唐突な提案に戸惑っていたアカシアは苦笑とともに尋ねた。エヴァンはにっかりと笑い、「少しなら良い」と言って缶を手渡した。


 僅かに安堵したアカシアは開けたてで、寒風下でも熱を残すコーヒーを二口だけ飲んだ。微糖なのかほんのり甘いコーヒーは寒空の下で飲むに適していた。



 最初の目的地は、バイクで北へ40分程度先にある動物園。地図上ではマン島の北部にある。この賭事をするには丁度よい距離とアカシアは、からから笑う。


 実のところ、彼女との二人乗りはこれが初めて。大抵三人で行動するため、アカシアは仕事の折しかバイクは使わない。


 実のところ、エヴァンには多少の緊張があった。

 なにせバイク事故は恐ろしい。相手がアカシアでなければ、二人乗りなど断ったところだ。

 一方でアカシアは自身があるのか(さっきは乗り気でなかったくせに)、力強くバイクに乗り、エヴァンに後ろへ乗るよう促した。


「じゃ、出発すっぜ。ちゃんとしがみついていろよ」


 エンジンがかかる音とともに、エヴァンは半ば反射的に広い背に顔を埋めた。間もなくバイクが動き出し、次第に朝の冷風が、烈しく頬の横を通り抜けていった。


 セーター越しに感じる背骨の感触。馴染んだ匂い。緩やかに呼吸を繰り返すたびに互いの皮膚が強く押し合い、人としての熱を分け合っている。しかし次第に強くなる風は、矢先からその欠片を取り上げていった。


 ピール・ロードを駆けていくバイクから、エヴァンはじっと街道沿いを眺めていた。腕はきちんとアカシアの細い腰に回しており、ひしと身体を支えている。


 比較的開発されたそこにはバーや事務所、レストランの看板が並んでおり、次々入れ替わる景色の中でも人の営みを観察できる。


 行き交う人々の背景に石造りの町。明るい色の看板と、多少の緑色。

 孤島とはいえ王室属領たるマン島の島都付近は、見ればさほど故郷との差はない。


 次第に人や人工物の観察に飽き、視線を晴天へと向けていた。

 悠々と流れ行く雲や鳥たちは忙しない世界を余所目に空を泳いでいる。その対比がどことなく寂しくもあり、アカシアの背に改めて顔を押し付け、エヴァンは僅かな靄を払おうとした。


 しかし都市から次第に離れると、キャンプサイトなど、一体は緑豊かになってきた。灰色と緑の対比が美しい、エヴァンが好む色である。


「エヴァン、あぶねぇから寝るなよ」

「寝てない。ぼーっとしていただけ」

「どっちもこえーよ」


 セリフの割に明るい声で、アカシアは僅かに速度を上げた。よほど自身があるらしいなと言ってやれば、彼はまた快活に笑った──顔を見ずとも、エヴァンには分かる。


「着いたぞ。起きてるか?」

「起きてる……」


 ひとつ大きな欠伸をしながら、エヴァンはアカシアの背から顔を離した。

 しばらく後、二人は予定通りの時刻に動物園へ到着したのだ。休日とはいえ開園直後ゆえ、あまり人は入っていない。


 これはゆっくり観光できそうだと、エヴァンは内心で独白した。


「あーあ、俺の負けか」

 アカシアはサドルに跨ったまま、缶コーヒーの様子を確認した。


 つられて見れば、缶コーヒーの口を覆っていたハンカチは僅かに汚れていた。やすやすと敗けを認めたくないらしいアカシアはねだるような視線を向けたが、にべもなく却下された。


 何せそれを認めたら、意地張った意味が無くなる。

 口には出さなかったが、エヴァンはそう思っていた。アカシアはわざとらしく不貞腐れ、ぬるくなった缶コーヒーを飲み始めた。


「くそ、じゃあ入場費だけ奢らせろよ」

「ダメ」


「缶コーヒーは?」

「ゴミになるものは持ち込みたくない」

 アカシアはエヴァンの強がりに呆れる一方で、気持ちとしては満更でもなかった。


 幼馴染みとはいえ、時に互いに境界線が分からなくなることもある。それでも不満を一日たりとも持ち越さぬあたり、相性は良いのだろうと共に自負している。


 故郷やマン島の空と変わらない。

 互いに明るくなることもあれば、暗くなることもある。互いを信頼しているがゆえにぶつかることもある。そして一頻り吐き出しあったら、何事もなかったように互いに紅茶を飲んでいる。


「くそ。次は負けねぇからな」

「はいはい」

 あとは、どっちも負けず嫌いというのも一因か。


 バイクから降りたエヴァンは苔色のマフラーを結い直し、アカシアの背を追うように動物園へと入っていった。

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