幕間① バレンタイン(アカシア視点)

※エヴァンと会って一年足らずのアカシア。レイフはまだ産まれてません



”A chuisle mo chroí”


 殺風景な職場の休憩室にて、アカシアは一本の赤いリボンに文字を縫い付けていた。


 はじめは”From Your Valentine”にしようかとも思ってしばらく悩んだが、彼女の性格からするとちょっぴり見栄を張っても祖国の言葉アイルランド語で送った方がいいだろう。


 実のところ生れはここ──リバプールだから、祖国アイルランドについて知ることは多くない。炭鉱で落命した両親は訛りがあるとはいえ英語を話していたし、貧しさに追われて教養と縁のない日々を送っていた。


 今の家に引き取られたのは去年の夏。迷いネコを助けたことがきっかけだった。家主の一人娘エヴァンジェリンはほぼ同い年で、愛想は良くないが勉強を手伝ってくれる。お陰で文字を少し覚え、計算も早くできるようになった。


 切れ端を繋げた布封筒で本──シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を包む。女流作家の方が彼女の趣味に会うと思って選んだ一冊だった。


 メアリ・アステルやウルストンクラフトのような、罪深い存在とされ、常に抑圧される身だった女性の可能性を信じ、教育の必要性を訴えるしたたかな婦人たちの本を好んで読む彼女ならば、多分気に入ってくれる。


 最後に綴目が見えない面にリボンを縫い付けたら、プレゼントのできあがり。我ながら悪くない出来だと自画自賛。


 仕事が終わって夕飯を終えたら、彼女の部屋に訪問した。リビングの向かい、薄い木の板にノックする。中から返事とぱかぱかとした足音が聞こえ、まもなく扉が開かれた。


「夜遅くにごめん。その、ちょっと、用があってさ」

 月明りだけが頼りの夜、長い睫毛がこまめに揺れる。寝ようとしたところの突撃となってしまったことを詫びながら、アカシアは震える手で布封筒を差し出した。エヴァンは疑問符を浮かべながらそれを受け取り、何だこれとばかりに凝視する。


「ム、チュイ……? アイルランド語?」

「ほら、今日バレンタイン。君にはこれからも世話になるだろうし、そう、年も近いから......」

 緊張で口ごもりながら、なんとか十分な言葉を紡いでいく。できるだけ目を逸らさないよう努めると、彼女はふっと微笑んで言う。


「手触りからして本ですか。開けても?」

 何度もタメ口で話してくれと言ったが、まだ慣れてくれないらしい。


「あ、ああ。むしろ開けてくれ。高いものじゃあないけど」

「ありがとう。じゃあ、失礼します」

 白い指が口の紐を解き、丁寧に本を取りだす。シャーロット・ブロンテの名を見ると、少し表情を綻ばせて、胸に抱くなり礼を述べた。控えめな彼女なりの感謝なのだと、アカシアの心はふわっと浮わつく。


「ごめん。わたしは何も用意していなくて」

「いや、おれがしたくてしたことだからさ! 受け取ってもらえるだけすっげぇ嬉しい。夜遅くにごめんな」

 エヴァンは首を横に振った。それから少し考え込むように黙って、再び顔を上げる。


「ところで、この刺繍は君が編んだの」

 彼女はリボンの文字列を指す。アカシアが親から教わった、数少ない母国語。


”A chuisle mo chroí” 


「ああ」

「意味を聞いても?」

「お、おれの心拍……。ほら、君から文字とか習っていろいろ充実してるってことで」

 顔が熱くなる感覚に顔を覆う。調子に乗ってキザな単語を綴らないほうが良かったやもと、バクバクと心臓がうるさくなる。文字を見る視線の変化がやけに恐ろしい。


「アイルランド人は恋文を書くのが得意と聞きます。貴方にもその片鱗が、あるのかも」

 思いの外穏やかな声色にほっとすると同時に、アカシアは嬉しくなって、顔を覆っていた手を下ろした。彼女は眠いのか瞼を擦り、目も虚ろになっている。


「返礼は後日渡します。改めて、今日はありがとう」

「うん、こちらこそ。……あー、あと一つ聞いてもいいかな」

 エヴァンは小さく欠伸をして、どうぞと促した。


「君にとっての理想の男性像とか、ある?」

 彼女の瞳孔が大きく開いた気がした。しかしすぐにいつもの澄ました表情に戻ってしまう。


「考えたことないですね。強いて言えば」

 彼女は顎を指で挟み、少し思案するように俯く。しんとした静けさの中、遠くのネコの鳴き声が聞こえる。


「優しい人。人を悪く言わない人がいいです。今はそれくらいしか思いつきません」

「そっか。わかった、ありがと。じゃあ、また明日!」

「? 良い夢を」

 彼女の背を見送ると、アカシアは一気に脱力した。その場で崩れ落ち、ノリで要らぬことを聞いてしまったと頭を掻く。


 そして深い深いため息を吐いて、這いずるように寝室へ戻った。なお寝る場所は家主と同じである。


「優しい……。人を悪く言わない、か。そりゃあ難しいなぁ」

 アカシアは平然と人を罵倒し、力に溺れ、子どもを虐げる大人を何人も見てきた。穏やかな人は片手で足りるほどしか見たことがない。


 ゆえに彼女が言う優しい人間などほぼ空想だろう。引き取られる前の自分なら鼻で笑っていたに違いない。


 でも、今は違う。炭鉱と救貧院を経て流れ着いたこの家で、アカシアは精神の成長を実感した。中でもエヴァンとの勉強は一番の楽しみである。


 明白に知識が増え、今まで気にしていなかった景色に目を向けられるようになった。そんな自分に驚きつつも、心の底から感謝している。今日のプレゼントが、その証である。


「悪いこと言わないのが優しさかって話だけど……。ま、考えるのが大事か」

 独り言は夜の闇に溶けた。熟睡する家主の隣で布団を被り、アカシアはゆっくり目を閉じる。


 静寂の中で、今度は己の心拍だけがうるさい夜であった。



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