⑨寂寞


「空、キレイだな」

 風与、アカシアが口を開く。彼の顔に乳色の月桂が差している。


 灰色の視線を追うと、格子の向こうに赤い雲が広がっていた。半月がおぼろに、天のプールに浮かぶ。


「リバプールにもエディンバラにも、こんな空は無かったよな。工場からの排気ガスばかりで暗いんだ。でもここは違う。空気が住んでいて息がしやすい」

 元気な前髪が、壁に押し付けられている。くしゃりと潰れた髪が、寂寞に伏しているようだ。


 アカシアは両親が死んでから用水路の魚を採ったり雑草で釣りをして、逞しく生きていた。


 温室暮らしの上流階級には想像もつかないほど過酷な環境にいたのだ。だのに今は、美しい空に打ちひしがれている。都市は著しい発展の対価として、種種の瘴気で肺を満たした。


「この世界に来てからずっと思ってたけどさ、オレ達が元いた世界って結構ヤバかったんだなって思う。だってこっちの世界の方が、ずっと暮らしやすいもん。なんというか……上手く言えないけど、ここならオレも生きていける気がする」

 アカシアは無邪気に呟く。その表情があまりに清らかで、わたしは気まずさに目を逸らした。


「最初は叫んでたくせによくもまあ。だがなアカシア。例え灰色の地獄でもあちらこそが我々の世界。我々の故郷だ。我々の家族や思い出はあちらの世界にし、発展の否定は先人たちの否定だぞ」

 ルソーのような、過ぎた自然主義は人が授かった知恵や理性、そこから得られる幸福を見つける目を曇らせることだろう。

 過ぎたるは及ばざるがごとしである。


 アカシアは悔しそうに唇を引き結ぶ。それから、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「それはそうだけどさ。死んだほうがマシな世界を称えるのもどうよ。ガキの頃のことはよく覚えてねえけど、父さんも母さんも煤塗れの傷だらけだったよ。そんなところに帰りたいと思うのか?」

 真っ暗な炭鉱が、彼の瞼の裏にあるのだろうか。まだ小さな子供たちが、矮躯を生かして鉱山に潜る。暗い穴の中で汗を流す。薄汚れた身体でツルハシを握る。毒に冒されながら働けど、貰える賃金は雀の涙。運が悪ければ生き埋めになる。


「確かにろくでもない世界だ。しかしだからとって、安易に何もかも捨てることが正しいのか? 半生のじゃがいもを食べてきたお前の祖父母とはわけが違う」

 わたしはふと、彼との出会いを想起した。


 初めて会った彼はわたしの父に手を引かれ、飼いネコの尻尾にはたかれていたことをよく覚えている。


 惨めで小さな孤児のくせに、泥だらけの顔でギラギラ笑っていた。「こいつは逞しいのか鈍いのか」と、当時七歳のわたしは眉を寄せた。実のところ、彼は後ろ向きに全力疾走する男だった。


 明日には明日の風が吹くと、実にアイルランド人らしい考え方をする。もっとも、そう考えるほど追い詰めたのは我が祖国であるのだが。兎に角、こいつは何もかも放り出して逃げたくなっても、しぶとく生きるだろうと、ぼんやり感じたことを覚えている。


「そりゃそうだけど、でも」

「わたしやレイフにも家族がいる。先生がいる。祖国がある。思い出がある。あの人たちを見捨てるほど我々は残酷であってはならない」

 アカシアは目を大きく見開いた。言葉に詰まり、口を開閉し、それから静かに下を向いた。


 彼の言い分も分かるが、しかし正しいとも思えない。


 静かに憤っていると、アカシアは拗ねた子供のように顔を背ける。まるでわたしの父親だ。普段は流せたそれが、今は苛立って仕方がない。


「オレだって見捨てたいわけじゃねえよ。でも……」

「でもじゃない」


 机を叩くと、アカシアはびくりと肩を跳ね上げる。わたしははっとして目を伏せた。


「悪い。声が大きかったな」

「なあ、本当にどうしたんだよ。オレのいないとこでなにかあったのか? じゃなきゃおまえがフキゲンになる理由なんて……」

 フキゲンなのはお前の態度のせいだ。はっきり言えばいいのだが、わたしの臆病ゆえか出てこない。代わりに肘鉄を吐くと、アカシアの声色が変わった。


「なんだよそれ! オレが悪いって言いたいのか!? そりゃ悪かったけど、なんでそんな態度取るんだよ!」

 今度はアカシアは大声を出した。目をうるませ、顔を歪めて喚いている。


 ああ、この男はバカなのだ。自分のことは棚に上げて、人の気持ちを考えようとしない。彼は吐くだけ吐いて黙ったが、やがて舌打ちをして寝台に沈んだ。


 顔を背けた先、わたしの指先にモルフォ蝶が留まっていた。



「悪い、アカシア。わたしも疲れているんだ。少し一人になる」

 アカシアは頬をリスみたいにして睨み、布団に潜って転がっていた。


 ナジオンは「話は終わったか」と言わんばかりに、ドアノブに飛びつき、扉を開けるなりわたしを外へ導いていく。既に察していたが、向かった先はクリンショーの地下室であった。扉に手をかけ、堂々と開け、ずけずけと下へ降りていく。まるで我が家のように、この自然の香りに満ちた地下階段を一歩一歩降りていく。


 光る苔のように仄暗く照らされる四角い扉をノックすると、許しの一言が聞こえた。我ながら雪解けの清水がごとき所作で中に入ると、先日と同様、クリンショーは筵の上で胡座をかいていた。


「唐突な訪問という無礼、ここで詫びさせていただきます」

 頭を垂れると、彼はくすりと笑った。


「どうぞ顔を上げてください。あなたの訪問は察しておりましたからね。ささ、お食事もご用意しておりますのでお掛けになってください。アカシアくんの分はナジオンに配達させますのでご安心を」

「ご親切、痛み入ります」

 彼はマイズ茶とイノシシのステーキを運んできた。礼を言って受け取り、早速木のナイフで切って口に運ぶ。


 未加工の肉は塩を振っただけでも美味しいのかと、舌鼓を打つ。同時にこの贅沢に慣れてはならぬと自戒した。


「お口に合ったようで何よりです。ところで、本題に入らせていただきたいのですがよろしいでしょうか?」

 わたしは小さく咳払いしてから顔を上げた。彼はわたしの視線を受け止めると、黒い唇がぬらりと動く。



「まずはあなたが最も望むレイフくんの件から。商会への調査や北部への捜索の結果、やはりダヌヴェ人の仕業と断じます。というのも我々は海に出られないのに対し、彼らは島に上がれます。どこを探してもいないともなれば彼らくらいしか思い当たりません。そして彼を浚ったオオカミというのも、ダヌヴェ人が遣わした悪鬼と考えるのが妥当でしょう」

「妖精とやらは島の外にもいる?」

「ええ。大陸での数はわずかなものですがね」

 ホルスロンドと他では精霊の由来が違うのか。あるいは環境か。いや、それもまた重要ではない。


 不安で肉が通らない。しかたなく手前にあった茶で流しこんだが、勢いよく飲んだせいで噎せてしまった。


 クリンショーは水の入ったグラスを差し出し、わたしはゆっくりと、しかし大きく息をしながら、少しずつそれを飲んだ。

 大理石の上を滑り落ちるような喉越しは、泥臭い故郷の水とは別物である。水を味わいつつ、クリンショーと異国情緒な内装を観察する。そしてある仮説を得たところで、呼吸を整えて質問を続けた。


「クリンショーさんは、島の外の人ですよね」

 あまりに唐突且つ率直な質問だっただろう。


 クリンショーは笑みを浮かべたまま固まった。やがて口端が震え、表情を繕おうとして──結局諦めた。

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