⑦焦燥


 ホタルのランプを手元に置き、わたしは木板と革の地図を広げて復習していた。


 マイズとかいうカモミールに似た茶を飲みながら、改めて国土の地理を確認する。アカシアは鹿毛のブランケットを羽織り、隣から覗き見ていた。


 わたしは今日一日で多くのことを知ることができたが、いずれもレイフへの手掛かりには程遠いものばかり。アカシアはアーサリンらに任せるべきと言うが、そもそもこの件は我々だけの問題である。


 加えてもしも、先生のたわ言通り、わたしの宿命とやらがレイフを巻き込んだとしよう。例え他者の罪であれ、結局わたしは主が原罪を負ったように、本件について尻拭いをせねばならない。


「女王に希って、大陸に渡らせてさせてもらう。レイフはわたしの弟だ。わたしが助けないといけない」

 そう言うとアカシアは驚き、首を横に振った。置き去りにされた子イヌのような、とても情けない顔を見せている。


「オレはイヤだぞ。どこにいるかも分かんないのに危ないだろ」

「だったらわたし一人で行く。あんたは──」

 にわかに、アカシアはわたしの胸倉を掴んできた。彼に押し倒されるかたちで寝台に背中が沈み、蹴ろうにも太ももに跨られ、足を堅く封じられた。


「ばっかじゃねえのか! おまえ!」

 唾が顔に飛び散る。


 わたしはイノシシにつき上げられたように呆然とした。間近にあった顔は青白く歪み、手首をつかむ手はいつになく強く、まるで鉄のよう。わたしは息を吸うことも忘れ、じっと灰色の瞳を見つめた。アカシアは腕の力を抜かし、弱弱しく言う。


「そんなことして、もし、もしもお前まで帰ってこれなかったらどうすんだよ。オレは、オレは、エヴァンがいなくなったら悲しい。いなくなるのはいやだ。だからそんなこと言うの、ゆるさない」

 わたしはアカシアの意思を尊重したい一方で、レイフの安否に著しい不安を抱いていた。今この時すら泥を吐くほどのものが溢れている。



 アカシアの言う通り、レイフの捜索は危険を伴うことだろう。しかしどうしてそれが籠る理由になろうか。わたしはできるだけ丁寧にアカシアの手を解き、その腕を撫でた。


「すまないアカシア。だがわたしが何もしなかったら、いつレイフを取り返せるんだ。わたしだって死は恐ろしいし、だからこそ易々と死ぬつもりはない」

「お前が死んだら、オレも死ぬぞ」

 アカシアの声は、熱された泥のようであった。しかしどうせ、臆病な彼に自死する勇気などあるまい。そう思って視線を逸らすと、にわかに気管が狭くなった。荒い息が顔に掛かる。


 声も息も通らない。

 五本の細く生温いものが首を締め上げている。五匹の子ヘビによって一斉に絞められているようだった。


 アカシアは眉を吊り上げていた。


 イーゴリ先生から極東の国にある般若という面について聞いたが、まさにあれとよく似ている。

 このままでは本当に死にかねない。今のアカシアならやりかねないと、彼の手の甲に爪を立てる。すると力がふっと抜けていく。その手は首から離れ、今度は腰に移動した。アカシアは左肩口に顔を埋めた。


「オレを置いてくなんて許さない。絶対にだ」


 わたしは呼吸を整えつつ、応じるために背中を撫でる。元から細いアカシアは、この二日間で明らかに痩せた。言葉が分からないぶん、より多くの精神的な負担が掛かっているのだろう。


 逸る思いに頭が痛む。一刻も早くレイフと会いたいという、最早呪いにも似た思いを胸に、わたしはアカシアの腕を振り払った。視界の端に歪んだ彼の表情が映る。


「……わかった。お前の意見に従おう」

 わたしが諾う姿勢を見せると、アカシアは一転して喜色満面の笑みを浮かべた。こいつはわたしの気持ちなどお構いなしに、こちらの手を握り締めている。


「ああ。レイフは大丈夫と信じよう。オレは、エヴァンを失いたくないんだ。必ず、みんなでで帰ろう。オレたちはどこにいたって一緒なんだかんな」

 アカシアは再び細い両腕でわたしを抱いた。わたしも黙って彼の背に腕を回し、体温を感じながら目を閉じる。瞼の裏は熱く、しばらく開けたくないほど張りつめている。


 愚かで優しい彼はわたしの嘘を信じてくれた。確固たる決意の為に、わたしは家族を騙した。


 勿論罪の意識はあったが、一刻も早くレイフを見つけたいという焦燥は抑えられない。彼の胸板を押し返し、わたしは寝支度を始めた。


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