⑥情報


 わたしは椅子も机もない家にて筵に腰を下ろし、床に蝋塗りの木板をおいて文字を彫っていた。膝に木屑が舞い落ち時々くしゃみがでる。わたしは手で口を塞ぎながら、木版の文字を見直した。ここには紙と言えるものが二種類──ブナの樹皮で作ったものと羊皮紙があるが、いずれも高価で多く使えるものではない。


 ホルスロンド王国は故郷と同じく、四方を海に囲まれた島国であった。右下もとい南西に大陸が広がり、そこにはダヌヴェ人という遊牧民が住んでいる。


 地図によれば島の地形は、崖で休むニシツノメドリを真横から見た形に似ていた。面積は不明だが、各集落間の距離からしてかなり小さな島である。


 中心区ウィートヒル白い丘は南東部に位置し、東に最高峰の山──すなわちわたしが目を覚ました『妖精山アールヴビョルグ』がある。島の中央部には南北を分ける最高峰の黒き山脈が走り、その北は極めて寒冷ながら良質な水や燃料、石材や木材に恵まれ幾つかの商会ギルドが拠点を構えている。


 宗教は我が国と同様一神教。妖精山に埋葬された『主』がホルスロンドを作り、死してなお全てを見通し、精霊を生み、民を島内で守っている。


「島の商業は様々な商会により成り立っています。高級な酒を提供する北部最大の酒造ギルド『カティー・オ・ダヌ』。茶葉製造ギルド『グレン・ウィッセ』などなど……」

 クリンショーから話を聞いたあと、わたしはトゥースネルダと名乗る女戦士の家で授業を受けていた。


 彼女は三十路超えの未亡人で、五つの集落をまとめる領主であった(しかしその家は外装も内装も、実のところわたしのそれと大差はない。強いて挙げるならば牛の革の絨毯が敷かれ、数人の従僕が出入りするのみである)。


 燻した麦のような薄茶色の長髪を後ろで纏め、筋肉質かつ大柄なその人はどう見ても逞しい。無知で無力な『家庭の天使』を理想とする我が世界では、なかなかお目に掛かれぬ人である。


「元締めを通してレイフ捜索に協力してもらうことは可能でしょうか?」

「女王は全てのギルドと繋がっているので可能です。流石に北部だと時間がかかりますけどね」

 クリンショーはわたしに、考察には材料が必要であるため、ホルスロンドについて学んでおくよう説いていた。


 休憩時間になり、わたしは外の空気を吸い外へ出た。湿気で鼻腔を湿らせながら、トゥースネルダの案内で川に向かう。アカシアはそこで釣りをしていたが振り返った顔に疲労が見えた気がした。仕事自体はつつがなく進んだ一方、多感な少年ゆえ構われまくったことだろう。彼はもみくちゃにされた仔ネコのように摩耗している様子である。


 水面は鏡のように澄んでおり、底の苔もよく見える。魚の影が自由に動く。わたしも疲れているのか、無性にそれで遊びたくなった。


「エヴァンジェリンは呑み込みが早いですね。とても教え甲斐がありましたよ」

 後ろのトゥースネルダが頭を撫でる。大きい手に頭を包まれ、俄かに胸が痛くなる。


「それは貴方の教え方が上手だからですよ」

「いえいえ。貴女の努力の成果です。誇りに思ってくださいな」

 わたしは彼女の誉め言葉を流し、流れる水面を見つめていた。リバプールともエディンバラとも違うそれ越しに、隣のアカシアと目が合った。


「綺麗だよな。水」

 アカシアが言う。


「ああ。こっちとは全然違う。水も空気もおいしいし、何より緑が豊かだ。我々の世界に嘗てあり、今はないものばかりだ。お前が年中仕事に追われることもあるだろうけど」

 灰色の故郷が瞼に映る。この豊かな王国とは程遠い、煤が蔓延る雨の国。特権の町は悲しみに満ち、呪いの墓場となっている。


 しかしそこにも嘗て、よく似た景色があったことだろう。故郷への思いが揺さぶられる。わたしの中のサクソンの血は、魂が帰るべき国を思い出したようである。


 無意識に故郷を忘れかけたことに、寂寞の罅が入った。祖国とは単なる生れではなく魂の在処ならば、今やそれを見失いかけていたのだ。己の希薄さに、わたしは深い溜息を吐く。


 透明な静寂に包まれ、無為に流れる時間の音。わたしはただ、乙女たちが機織る音を拾っていた。


 わたしは午後の講義を終えてから、トゥースネルダに女王への謁見を求めた。彼女はすぐに伝えましょうと快く承り、まっすぐ館へ走っていった。


 夕の空は紫に染まり、否応なくレイフを想起させる。それを呆けた眼で見上げているとアカシアが左肩を叩いてきた。足を止めると、彼の鼻がぶつかった。わたしは鼻を押さえる彼に謝った。


「いいけどさ。ずっと顔色が良くないから、手を握らせてくれよ」

 彼はさっとわたしの手を取った。アカシアの指はわたしより細く、乾いている。握ったところで大した温もりなどないが、真冬の薄っぺらい布団のように、今だけはないよりましなものに思えた。


 館に到着し、木の扉を叩く。奥ではアーサリンとラルフが仕事していた。仕事の邪魔だったのか、木版を持ったラルフがこちらを睨めつけてくる。アーサリンに咎められると、渋々とオオカミの姿に変化しにいった。


「来たわね。さ、掛けてちょうだい。お茶はすぐに出すわ。それから、そうそう、まずはレイフの件ね。ちょっとクリンショーから聞いているだろうけど、改めて話すわ」

 わたしとアカシアが手前に座ると、彼女は机上に設置されたベルを鳴らした。すると二人の女中がティーセットを手に現れ、手際よくお茶を淹れてくれる。


 彼女たちに勧められるまま、わたしはカップを手に取った。味は昨日と似ているが、リンゴのような香りも交じっている。心穏やかになる優しい香りである。


「でしょう? ウェルグルの茶葉はウィートヒル自慢の一品なんだから」

 アーサリンは得意げに言うが、すぐに声色を変えた。



「レイフは現時点でも見つかっていないわ。だから明日には、商会にも探りを入れます。大抵の商人は商品に疵を付けたくないから、命は保証できるわ。問題はダヌヴェ人。彼らは略奪を生業にするし、島外に出られると探りようがないのよ」

 トゥースネルダ曰く、ダヌヴェ人は東の大陸に住む遊牧民であり、夏と冬に海を越えて国境を襲うと者たちを指す。


 彼らはスキタイ人やモンゴル人と同様、一つの住処に留まらず、ウマやヒツジ、ヤギを連れ、草を求めて各地を巡る。また戦の折には男も女も前線に出、陸ではウマに、海では船に跨って戦う生まれながらの戦士である。


 彼女も不甲斐なく思っているのだろうか、口を噤んで俯いた。

 オオカミ姿のラルフは後ろ脚で立ち、慰めるように頭を擦りつけ、顔を舐めている。もふもふな尻尾が寂しそうに揺れていた。


「レイフを救ける事だけがわたしの目的です。そしてその為に多少の危険を冒し、血を流す覚悟はしています。もしものことがあれば、女王陛下の責任下から退いてでも外に出ます」

 わたしの宣言に対して、アーサリンは困ったように口元を曲げた。


「大抵のことは、言うだけなら簡単よ。でも身体は決してそうでないと覚えておきなさい」

 ラルフが足元で伏せていた。


 闇では恐ろしい獣も、寝ぼけ眼ならば可愛らしい。彼の黄金の毛並みは、月光を浴びてきらきら輝いていた。





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