⑤黒蛇
翌る日は珍しく、アカシアの方が早起きであった。わたしと同じアサのチュニックを着て、眩い窓の外を眺めている。
黄金の髪を靡かせた太陽が、東の塀から顔を覗く。白馬の白皙が影を殺した。
「昨日はみっともないとこ見せちまったな。一日で二回も泣くなんて、オレ、弱ってんのかな。せっかく暇な日が続いてんのにもったいねぇや」
互いに起床の挨拶を交わすと、アカシアは照れ臭そうに笑う。わたしは裾を伸ばし髪を手櫛で梳いていた。
先程まで小雨が降っていたのか、窓にわずかだが水滴が残っている。
しかしなおも朝陽は眩しく、木々と鳥の声が宙に響く。空気は澄んでおり、光と水の粒さえ見える。
懐かしささえ覚える緑と土の香りが鼻腔を抜ける。まるでこの国が目に見えぬ精霊となって歓迎してくれているようだ。扉の側ではラルフが姿勢良くお座りをし、我が祖が御座すケント州の稲穂のように、ふさふさとした体毛を靡かせている。彼は黙って立ち上がると、ついて来いとばかりに歩き出す。
オオカミの背を追うわたしは、さながら羊のようだろう。
外では農業や家畜の世話に勤しむ人の中には、くすんだり、つぎはぎのチュニックをまとう者もいた。しかし奴隷と思しき彼らも含めてほとんどが人らしい血の通った顔をして、桶の水を畑に、穀物をニワトリに与えていた。
案内された場所は、隣の集落にある木造の紡績小屋。広さは
不可思議なことに、中に入ると紅茶のような香りが立ち込めていた。奥のスツールに座っていた男が、優雅に朝の茶を飲んでいたためである。
毛皮で編んだ臙脂色の外套を羽織り、面紗で顔を覆っている。今まで会った者たちと違い、皮膚の露出がほとんどない。面紗の下から一筋の黒い唇が覗いていた。
「初めまして。女王より御二方の保護を命じられました。クリンショーとお呼びください」
一見細身に見えた男だが、立ち上がるとラルフより少し低い程度である。つまり、わたしより頭二つ分近く背が高い。
アカシアは珍妙な出で立ちの魔術師に、怪訝な視線を向けている。
クリンショーは飲み干したコップを広い裾の内側に仕舞い、わたしの前まで歩み寄ってきた。ラルフはいつの間にかいなくなり、三人だけの空間となっている。
「ご丁寧にありがとうございます。わたしはエヴァンジェリンと申します。こちらは連れのアカシア」
わたしに促され、アカシアも渋々と会釈した。
クリンショーはわたしたちにこの小屋で機織りや洗濯をしてもらうこと。空き時間は好き過ごして良いこと。ただし女王もわたくしも決して暇な身ではないこと。異邦人として見張られていることをよく理解するようつらつらと述べた。
親切丁寧。真に友好的な行動に、わたしは改めて首を垂れざるえない。
すると、やにわ黒いグローブに包まれた手がわたしの髪を梳き、耳元まで撫で上げた。鳥が飛び乗ってきたような感覚に、思わず肩を跳ね上げてしまった。
「おい、てめぇ!」
アカシアがぐるぐる声を荒げる。しかしクリンショーはくすくす笑うだけで、怯みもしない。
「女王は、あなたからの更なる事情聴取を求められております。しかしご友人がいては、イヌのそばで肉を食べるような緊張がありますでしょう。……どうか、一度もろもろ聞きたく存じます」
アカシアは不満げであったが、わたしが首を振ると仕方なしに引き下がる。
間もなく機織りと裁縫担当の女性、併せて十人ほどやってきた。年は十代後半から五十路超えまで幅広い。皆ガウンを重ね着しており、豊かな女性は金色のブローチを付けている。腰は革製のベルトで絞られ、ポーチがぶら下がっている。
彼女たちは壁には計五台の織機の前に立つより先にアカシアに挨拶し、一人ずつ丁寧にうら若き少年の手を握り締める。クリンショーに連れられるわたしの背で、彼は口元をわなわなと震えさせながら、オオカミに囲まれた子ジカのように縮こまっていた。
「良かったなアカシア。若くてキレイな女性に囲まれて」
「うるせー! 言葉通じねぇのに囲まれて漏れそうなんだけどぉ!?」
わたしは可笑しくて堪らず、腹を抱えて笑ってしまった。
まあ頑張れよという言葉だけ残して去ると、彼を慰める女性たちと、アカシアの悲鳴が聞こえた気がした。
一方わたしはクリンショーに付いていき、中央の建物にある地下へ入った。
なぜかようなところにと尋ねれば、秘密は隠されている方が楽しいと彼は笑う。
地下室は当然真っ暗だが、玻璃色の籠が、淡く点滅してわたし達を導く。中には蛍が飛んでいた。一帯には重たい空気が漂い、まるでクジラの胃の中にいる気分である。
階段を下りた先の扉を開くと、まるで違う内装の部屋に繋がった。
床は莚が敷かれ、壁は樹皮を編んだような格子模様。中央には天を支えるような柱が立つ。接着には赤い土が使われていた。ここだけ、明らかに世界が違った。古きブリテン島にはない、むしろアジアに近いであろう。
わたしはマコモを編んだ絨毯に腰を下ろす。壁には薬草が入っていると思われる瓶が商品棚のように並んでおり、ここは秘密の薬局だと思わせてくる。
ほんわかのした──バラとシナモン、はちみつのような香りは棚に置かれた乾燥ポプリ。曰く女王から教えてもらったレシピで作ったものという。
彼はわたしの向かいで言う。
「さて、わたくしの星占いによれば、レイフ少年は貴方方と同じ湖から出たことに疑いはありません。しかしその後が分からない。使いのナジオンも飛ばしたのですが、得るものはなく。ねえ、珍しいことに」
クリンショーが袖を振ると、今度は黒いヘビが顔を出した。長く赤い舌をちろちろと伸ばすその子は、艶々な皮膚が美しい子であった。
「ヘビを飛ばしたとは」
わたしは尋ねた。
「人の男とメスオオカミの子であるラルフが人に化けるように、ナジオンはなんにでも化けられます。しかし手の中で遊ぶなら、やはりヘビが一番扱いやすいのです」
クリンショーはわたしに手を出すよう言った。
それに応じると、彼はナジオンをわたしの指に絡ませてくる。
見た目通り、手触りは冷たい絹のよう。初めは手を這う感触に強張ったが、慣れるとなかなか可愛らしいものだった。
ナジオンは左手に巻き付くと、ラルフと同じように、綴じた傷口をちろちろと舐める。
あの先祖の剣で切った一閃の傷。
たまたま付いた些細なそれに、もしや、何か意味があるのだろうか。いや、恐らくそんなことはない。
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