④初夜


「ラルフはオオカミ男よ。さ、レイフの臭いが付いていそうなところを出してみて」

 アカシアはレイフを抱くことも触れることもないため、わたしが右腕を差し出した。しかしラルフはこっちを出せとばかりに左手に鼻を押し付け、ふんすふんすと息をかける。


 そちらは血が邪魔ではと思いつつ、仕方なく左手を差し出してみる。


 ラルフは湿った鼻先を近付け、ふんふんと臭いを確かめる。ネコとは違う鼻息とこそばゆさに震えると、彼は鬱陶しそうに鼻を鳴らし、アーサリンに向けてお座りする。


「よし。臭いは覚えたようね。レイフ少年の行方については私が責任を持って協力するわ。その代わり貴方たちにはここホルスロンド王国で働いてもらうけど、構わないわね」

「当然のことと存じます」

 わたしは頭を下げ、女王より洗濯と機織、裁縫の仕事を賜った。

 加えて言葉の通じるわたしにはホルスロンドについて学ぶよう命じ、明日より専属講師が与えられる次第となった。


 そしてその夜、わたしとアカシアは東部の集落にある空き家を宿として貸し出された。ラルフの案内の下、不気味な木々のアーチを抜けた先、東部の集落へ到着する。


 宿は絵に書いたような三角屋根の壁には蔦が這い、床には筵が敷かれ、寝台は藁とハーブを詰めたアサ袋のよう。中央には囲炉裏があり、天井の灯りは虫かごのホタルが担っている。ガス灯よりは、幾らか快適であろう。


 ラルフはわたしにリンゴ酢もどきが入った水差しやゴブレット、替えの服を渡してから去っていった。匿われる身で言うのも失礼であるが、かなり無愛想な態度である。あるいは女王が異例なだけで、元よりそういう生き物であるのやもしれない。


「はあ。言葉が通じねえから疲れるぜ。エヴァンは大丈夫か」

 アカシアがベッドに倒れ伏して言う。何のことだと頤を引くと、彼は起き上がって顔を寄せた。少しだけ雨の湿った臭いが残っている。


「さっきの話だよ。アーサリン女王陛下はオレたちを手伝おうって言ったんだろ。でもそもそもオレたちは元の世界に戻れるのか」

 彼の不安そうに首を振る。わたしは弱音は吐くまいと明瞭に答える。


「心配するな。この世界には魔法というのがあるようだ。アーサリンはこの国の女王として何か知っているかもしれないし、知らないかもしれない。仮に後者なら他に当たるか、レイフを浚った奴に吐かせるのもいい」

 アカシアは納得していない様子であるが、それ以上何も言わなかった。


 わたしは一度濡れた身を清めようと上着を脱いだ。そしてラルフの案内の下、樽と桶に水路の水を貯めにいった。清々しい涼風の中、石鹸草で身体を清め、新しいチュニックに身を包む。


 トイレは水洗式のものが、集落の外を流れる川沿いにあった。ますます古代にタイムスリップした感覚だと、わたしは少々浮き立ってしまう。寝支度を済ませ、二人分のベッドに横になる。布団代わりの上着は暖かいが、半身しか覆えない。


「エヴァン。大丈夫か」

 布団の中でアカシアが問う。わたしは首を縦に振った。


「平気だ」

「平気か。でももし辛いことがあったら言ってくれよ。オレはあまり頭が良くないし、頼りにならないかもだけど。話を聞くくらいならできる」

 アカシアの声は震えていた。


「ありがとう。一人ではここまで来られなかったはずだ。お前のお陰でここにいる」

 レイフのこと、父のことに父の仕事のこと。不安は尽きないが、負けるわけにはいかないと内心で誓う。



「エヴァン。絶対に俺から離れるなよ。傍にいろよ。オレ、なにがあっても迷惑かけないように頑張るからさ」

「わたしはあんたもレイフも大切だ。二人とも無事なことだけが願いだ」

 浅く頷くアカシアの声は、暗く沈んでいた。見知らぬ世界で不安に陥るのは、実に自然なことである。彼は顔を上げて言う。


「知ってるよな。オレの両親、炭坑の事故で死んだって」

 わたしは肯いた。アカシアの家族は飢饉から逃れてリバプールへ来た。しかし貧民の仕事は臭く、暗く、過酷で危険で、大抵の死は少しも顧みられない。


「オレはしばらく救貧院で育って、でも友達は一人もできなかった。いつも一人で出歩いていた。でもさ、今はちがう。おじさんがいる。エヴァンがいる。レイフもいる。みんなオレの大切な家族なんだ。だからエヴァンのことは守りたいし、レイフも助けたい。オレにとって最初の男友だちなんだ。あいつもエヴァンもいなかったら、オレはどうしたらいいか分かんねぇ」

 壊れたダムのように、アカシアは不安を露にする。彼の思いは水となって溢れ出し、私の心臓がスポンジのように吸い上げていく。


「アカシア。わたしはここにいるぞ」

 アカシアは泣きながらわたしを呼ぶ。小さく形の良い後頭部を撫で続けると、ますます泣いて肩を濡らす。


「落ち着いたか」

「落ち着いたよ」

「わたしがここの言葉を聞けるのが幸いだろう。そこは心配するなよ」

「へ、へへ。ありがと。エヴァン」

 アカシアはわたしの胸元に顔を埋めて応えた。互いに身を寄せ合い、ここにいない幼子が静かで、安らかで、清らかな夜を過ごしていることをただ祈る。


 そのまま最初の夜が明けた。



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