③案内



 苔生した大岩の如き巨体が、緩やかに揺れる。まるで汀に打ち上げられたナマコのように、呑気に鼻歌まで歌っている。


「あいつは多く語らなかったけど、こうしましょう。そのレイフとやらが見つかるまで、我が国で暮らしなさい。無論、タダとはいかないけどね。彷徨う子どもを見捨てるなんて、優しい私はしないもの」

 見知らぬ森に喋るクマ。そして思いの外あっさり通った懇願に、伝え聞いたアカシアはますます渋顔になっている。


「いや、でもなぁ、オレは遠慮したい。しゃべるクマとか見るからにあやしいじゃん。信用できないよ。絶対、なにかがあるに決まってる」

 うまい話には裏があるとよく言うなら、彼の警戒も当然であろう。クマはその不安を察したのか鼻を鳴らし、今度はわたしの方を見て言う。


「坊やは疑り深いけど、あんたはどうなの」

 先より強い声と視線を受け、わたしは身体を強張らせた。ヘビに睨まれたカエルならぬ、クマに睨まれたサケと言ったところだろう。ちょっと沈黙が途切れただけで彼女は不満げに地を叩いた。


「よもや私の提案を断るのかしら。もしそうなら後悔するわよ。小枝のようなお子ちゃまたちが、こんな暗い森に一晩いたらどうなるかなんて考えるまでもないでしょう?」

 彼女の勢いに圧され、わたしは浅く肯いた。アカシアが腕を掴んで咎めてきたが、すぐに捩って振り払う。


「おい、エヴァン!」

「今は寝床があるだけありがたいだろ。ないんじゃレイフを探せやしない」

 彼は何も言い返せなくなってか、肩を竦めて首を振る。


「あー、もう、しょうがないなぁ。分かったよ、じゃあ、しばらく世話になるわ。よろしくな、クマちゃん」

 アカシアも認めると、クマは元気よく立ち上がった。そして西の空に手を伸べる。


「よろしい。ではこのホルスロンド王国女王アーサリンの後についてきなさい!」

 かくてクマもとい女王アーサリンの案内に従い、未知の王国へ向かう次第となった。


 早速アーサリンは来た道を引き返し、わたしとアカシアはその背を追った。暗い獣道の先に、今度は若草の草原が広がっていた。


 細い青草は微風に揺れ、星空の下で輝きを放つ。刹那、木々の間から吹き抜ける風が彼らを躍らせた。青黒い空と一瞬だけ融けて交わったようにも見えた。


「つかぬことをお尋ねしますが、ホルスロンドとはいったい」

「私が治め、数多の精霊アールヴが護る国よ。だから安心して過ごしなさい」

 彼女の声は高く明瞭としており、いかにも誇らしく、女王に相応しい自信を備えていた。


 アカシアは古英語もドイツ語も分からないため、「シングドゥム? ホースロンド?」ともごもご呟き続けている。質問するにも通訳がいるためか、不気味なほど黙っている。


「アカシアだっけ。そいつ、ふふ、私の威厳を前にして口が聞けないみたいね」

「そうですね。よもやクマが人語を話して、その上案内していただけるなど想定外ですから」

「そう! これも私がこの通り、賢くて強いクマだからなせることよ」

 体躯も態度も大きいが、背後から見れば耳とお尻がばるんばるんと揺れている。何とも面白く可愛い絵に、横のアカシアまで笑っていた。


 草原を抜け、獣道を抜け、砦柵を抜け、また開けた場所に出る。今度は向こうに長屋の群れが見えてきた。


 それはちょうど、古き世のドイツ人が建てたものによく似ている。妻側で双子の馬が、首を交差させているのである。あれは我が故地においてヘングスト・ウント・フォルスと呼ばれる妻側で、金星と馬の双子神──ヘンギストとホルサを象っている。


 妙なことにこの世界の言語や美術は少なからず我々の世界と似ているようである。いわゆるパラレルワールドなのか、もしやタイムスリップしたのか。事実を推し量るには、わたしはまだ何も知らない。


 他にも茅葺屋根の家が不規則に立ち、堀とナラ材の砦柵が外周を囲っていた。入口付近には夜半にも関わらず槍を携えた人間が複数いる。彼らは女王が通るとうやうやしくお辞儀し、彼女も一人ひとりに労りの言葉を与えていた。


 兜を被っているところから、夜の番を務める兵士であろう。アサのチュニックに毛皮の外套、革の鎧に木靴。彼らの身なりは古めかしいが、故郷の労働者よりは幾分健やかで逞しく見える。


 この不安と関心が昂ぶる具合は、多分、レミュエル・ガリバーが味わったものに近いだろう。アカシアは異国の風景に目を輝かせ、落ち着かぬ様子で歩いていた。女王は「まるで子どもね」と、少しあきれたように呟いた。



 その後もトンネルを抜ける鉄道のように、いくつかの集落を抜けていく。やがて奥の塀が見えないほど広い街へ出ると、中央に横幅約七十フィート約二一メートルはある館が見えた。街はその館を中心にて、周りに二階建ての建物を円を描くように並べている。


「あれが私の家よ」

 アーサリンは館を指して言った。館の手前まで来るとその堂々とした門構えに気圧される。


 周りには深い堀があり、壁の下半分は石で覆われている。屋根も茅葺きではなく瓦が敷かれ、天辺にはやはり双子神の妻側があった。

 扉の先には廊下がなく、中央には焚き火。周りにはキャンプ場のように長机と椅子が置かれていた。


 屋根を支える柱はおそらく頑丈なオーク材。一番奥には一人分の椅子と机が置かれ、それだけ馬を模した彫刻が施されている。壁には油坏が掛けられ、朱色と灰色が高い天井へ吸い込まれる作りになっている。


「飲み物を用意するから、好きな場所に座っていなさい。でも勿論、珍しいからってみだりにものに触れないでね」

 彼女は外へ出て行った。


 わたしは異国の城に目を瞠っていた。馬頭が彫られた天井の梁。壁を支える柱が、規則的な三角形を幾つも描いている。


 窓はガラスではなく木の格子。まるで『ベーオウルフ』のはちみつ館ミード・ホールである。

 ついつい見惚れているうちに、アーサリンが戻ってきた。隣には召使いと思しき大柄な男がいる。


 彼の髪は暗澹の中でも輝くほど明るく、たくましい胸筋がチュニックを押し上げ、切れ長の目はオオカミのように鋭かった。もし黒髪であったならばレイフを浚った奴だと疑ってしまっただろう。


 他方、なぜかアーサリンはわたしの膝ほどまで縮んでいた。男は赤子にそうするように、アーサリンを奥の椅子に座らせる。更に茶の入った木製カップが、アーサリン、アカシア、そしてわたしの前に置かれた。


「どうぞ、召し上がって」

 彼女の言葉に従い、わたしは黄色い茶を一口飲む。エルダーフラワーのような仄かな甘みがある、暖かい味であった。肩の力が自然と抜け、アーサリンは腕を組んで語りだした。


「お疲れだろうから話は手短にするわ。まずあなたたちは、レイフという少年を助けるために来た異邦人。そしてそのレイフは向こうの世界で黒いオオカミに浚われ、それから行方知れずと」

「はい。あの子はまだ小さく、最近走れるようになったばかりです。一人で遠くに行くなど難しいはず。それにそう、あの子はアルビノだから」

 悍ましい言葉を言い換えられず、わたしは口を結んだ。アルビノの弱点は視力や皮膚の弱さだけではない。


「アルビノとは何かしら」

 アーサリンは尋ねる。


「生まれつき肌や髪が白い人、或いは動物を指します。肌は日光に弱く、体力は乏しく、弱視の傾向にあります。そして我々の世界には神秘的な肉体に魔力を感じてか、拉致をする人もいるのです」

 喉元で詰まった音を、どうにか絞り出す。にわかに昔聞いた罪と、その罰が彼に降り掛かった可能性が過る。

 アーサリンは納得したように頷くと、男に木の板を渡した。


「全身まっ白な男の子。四歳。名前はレイフ。黒いオオカミに浚われた」

 男はクマのアーサリンに代わり、口述筆記を担うようだ。


 わたしが服装や目の色を教えると、彼は黙々と木版に書き足していった。鉄の筆先が木版を削り、こまめに止まる。


 掻き終えた板をアーサリンに渡すと、彼は隅にしゃがんだ。カラスより黒い闇に紛れ、逞しい背中がもぞもぞと蠢く。


 夜の沼地のように具体的な形が窺えない。アカシアは不気味がってわたしの背に隠れている。男が沈んだ影から、今度は金色のオオカミが現れた。


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