②彷徨



 信じがたいほど、美しい夜空を見た。黒い絨毯に金箔を撒いたような夜空であった。


 都市に生きる人は、未だかつてこれほど眩い星星を見たことがないだろう。


 一度深く息を吸うと、鐘が鳴るような頭痛が襲った。身を起こすと眩暈がし、身体は頭の天辺から爪先までずぶ濡れ、ぶるぶると惨めに震えている。左手の傷はまた塞がり、赤い線だけが残っていた。


 やがて次第に明瞭になった視界で辺りを見回す。黒い木々が円を描くように連なっている。森は森だが、我々が知る森ではなかった。青黒い絵の具で塗った空に、同じさまのアカシア。

 そして出口であっただろう湖。夜の湖はクジラの背に似ている。


 わたしを追ったのであろうアカシアのそばに這いより、鼓動を聴く。鳩尾の奥へと流れる熱が、指先まで確と届いていた。安定した脈のリズムに目頭が熱くなる感覚を覚え、腕からどっと力が抜ける。危うく胸板に斃れかけた身を、咄嗟に支えた。


 ──して、レイフは何処だろうか。


 かような不安が胸を掻き、手元の雑草を握り潰す。手のひらに若かった草の臭いを滲ませ、改めて天上の灯に目を細める。既に過ぎ去った雲は、泥のように重く暗い。先ほどまで雨が降っていたのだろうか。小さなレイフが濡れていないといいのだが。


「そうだ。レイフを探さないとな。あの子はまだ小さい。お腹を空かせちゃかわいそうだ。それに──」

 わたしはようやく腰を上げ、アカシアを抱えて道を探した。互いの濡れた身体は重く、ワカメに絡まれたような不快感がある。加えて頭ひとつ分よりも背が高い彼を抱えるとなると、足取りもカメのように遅くなる。


 やがて薄い雲が月を隠し、強い風が木々を揺らす。黒い帳がにわかに跳ねた。実に暗き夜の道。頼りになるのは星辰のみ。されど進む他がない。


 レイフはかなり小さいが、あの白皙の肌は分かりやすい。

 わたしは己に言い聞かせ、アカシアを背負ってさまよった。


 あかりが土のきざはしに射し込むところを見つけると、わたしはゆっくり降りていった。頭の上に影が掛かる。土は柔らかく湿っていた。降った先でまた開けた空間に迎えられる。


 妙な夢でも見ているのか、時々まぬけな声が耳元を過る。うわ言のようにレイフを呼ぶと、代わりに欠伸が返ってきた。


 そしてしばらく歩いたあとのこと。アカシアはわたしに背負われていると気付くや、慌てて降りようと暴れ出した。


 わたしが肩を抱いて窘めると、彼は情けない声で謝った。見知らぬ景色に、レイフの不在。アカシアはわたしの首に腕を回し、「オレのせいだ」と言って泣きだした。



 彼の泣き顔を見るのは、実に久しいことだった。泣き止んだアカシアは、まっすぐわたしを見て言う。湖に沈んだ、わたしたちを助けようとしたのだと。ミイラ取りがミイラになったのだと言って、ふるふる揺れる目を伏した。


「怖いか」

 わたしが問うと、彼は素直に肯いた。顔を背け、少し黙り、またこちらに向き直ると、今度は意を決したような表情を見せた。


「怖いけど、だいじょうだ。行こう。二人で、あいつを探しにさ」

 コマドリのような首の動きに、わたしは少し笑ってしまう。


 空では雲が月を被い、辺りは真っ暗やみだった。手前から風が強く吹きつけ、わたしたちの服も、髪も乾かしていく。


 不意にアカシアの表情が固まった。彼に促されて耳をすますと、左側から木々をかき分ける音が聞こえた。


 草木がひっかかれる音は急速に、どんどんどんどん大きくなる。決して、イヌやネコのような小動物の足音ではないと息を潜める。


「気を付けろよ。いやな予感がする」

 わたしたちが音のする方へ視線を向けると、木々の間から十フィート約三メートルほどの大きなクマがあらわれた。全身茶色のヒグマである。

 アカシアはわたしの前に出て言う。


「後ろに隠れろよ。絶対に前に出るな。オレが注意を引くから、その隙に逃げるんだ。分かったな」

 対して、わたしは首を横に振った。


「だめだな。アカシアこそにげろ」

 そう言うと、彼はにっかりと笑いこたえる。


「オレの方が足、速いもんな。よし、じゃあいっしょにたたかおうぜ。どっちが早くたおせるか競争だ。負けた方は勝った方のいうことを何でも聞くっていうのはどうだ?」

 何でもなんて言葉は軽々しく使うものではないなど、わたしたちは分かっていながら頷いた。


 しかし呑気なやりとりの最中、クマは一切わたしたちに手を出す気配を見せない。


 それどころか呆れたように息を吐き、どすんとその場に座りこんだ。これにはわたしたちも呆気に取られてしまう。しかもよく見れば、首に金の装飾が光っている。


「なんなんだこいつ、やる気あるのか? なくしたのか? エヴァン、どう思う?」

 アカシアが困り顔で問うてくる。


 わたしにも分からないと首を傾げ、まじまじとおおきなクマを見つめていた。それは悠々と毛繕いをして、大口を開けてあくびしている。



「んー、よく分かんないけど、このまま見のがしてくれんのかなぁ」

 アカシアは頭を掻きながら困っていいたため、わたしはかれの手を引いて後ろに下がり、クマからゆっくりと離れた。


「え、何してるんだ、エヴァン!」

 わたしはアカシアの手を離し、控えめにクマの方を指差した。


「アカシアの言うとおり、あのクマはこちらを害する意思がないのだと思う。だから、今のうちに離れるべきだろ」

 クマに遭遇したらゆっくり後退するべしと、イーゴリ先生から教わった。犬猫も同じであるように、野生とは背を向けて逃げるものに厳しいらしい。


「ふぅん」

 しかし静かに去ろうと思った矢先、やにわにクマが口を開く。


「この私を前にして冷静に下がることができるとは、なかなか見所のあるやつね。どう、私の国に来る心は無いかしら?」

 意外と高い声が出たせいで、アカシアがぽかんとして、わたしも驚きのあまり言葉を失った。


 何せクマはこちらを向いて話しかけてきたのだ。それも古き日の英語である。声や口調からしてメスグマなのだろうかと、かえってどうでもいい思考が過ってしまう。


「へぇ、こいつ、しゃべれるのか! なんて言ってんのかさっぱりだけど、すごいな! オレ、クマ語なんて話せないよ。どうやって勉強すればいいと思う?」

 不安や恐怖で血迷ったのか、アカシアは下手な冗談を言って、ちゃっかり通訳まで委ねてきた。尻を叩いて正気に戻すと、彼は叱られたイヌのようにしょげている。


「初にお目に掛かります。わたしはエヴァンジェリン。こちらは友人のアカシアと申します。にわかに信じがたきことを承知で申し上げますと、湖を通ってまいりました異邦人となります」

 わたしは膝を突き、凶器がないことを示すことで敵意が無いことを訴える。そして右も左も分からぬため、一先ず身を置けるところを知りたいこと。レイフという子どもを探している旨まで伝えた。


 彼女は大きなお尻を地に付け、茶色くもこもこな前足を顎にやった。


 大きく恐ろしいクマであるはずが、首の飾りも相まってどうも愛らしく見えてしまう。


 それに一見偉そうでありながらいかにも友好的な態度を見るに、確かに取って食おうという気は窺えない。わたしは右で訝しむアカシアを抑えながら、彼女の返事を静かに待った。

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