亀裂

バイト先である『鳴宮書店』についた。バイトを初めて結構な時間が経ったため、どんな業務をこなすのか全てを理解している。


そんなことを思いながら店の中に入る。そこには既に久井さんがいた。


「おはようございます」


俺がそう声をかけるとこちらに気づいた久井さんが挨拶を返してきた。


「あ、おはよう環君」


久井さんに挨拶をした後はバックヤードにいる店長に挨拶をする。


「おはようございます」

「ん?あぁ、おはよう」


店長は優しく笑いながら挨拶を返してきた。


あぁ、そうだ。言うことがあるんだった。


「店長、今日からバイトの給料は月払いに戻してもらっていいですか?」


もう日払いにする必要は無くなった。本当ならバイトも続ける意味がないのだが、なんだかんだでここで働くことが少し楽しくなっていたので辞めないことにした。


「…うん。いいよ」


店長は特に何を聞くわけでもなくそう言った。


「…ありがとうございます」


ただ店長は静かに笑っていた。


「お待たせしました」


バックヤードから戻り久井さんにそう言う。


「ううん、全然大丈夫だよ。じゃあ始めようか」

「はい」


そうして仕事を始めたのだが、やはりすぐに終わってしまった。今日はもうこれといってする仕事が無い。後はレジに並んで時々くる人の接客をするだけだ。


「…」

「…」


沈黙が流れる。これから数時間立っていなければならない。そう思うと話題が無くなるのは必然的なことだろう。


「…ねぇ、環君」


そんなふうに思っていたのだが、久井さんが話しかけてきた。


「どうかしましたか?」


俺はそう聞き返す。すると久井さんは言葉を続けた。


「…何かあった?」

「…何か、ですか?」


まただ。この人は要領を得ない話をしてくる。


「うん。いつもより環君の雰囲気が明るい…とは違うな。なんというか前みたいな無気力な感じじゃなくなったような気がするの」


どうやら久井さんはかなりの観察眼を持っているらしい。


「…まぁ、そうですね」

「へぇ…あ、前来てた妹ちゃんと仲直り出来たとか?」


どうやら勘も鋭いらしい。


「…よく分かりましたね」

「…そっか、環君はもう大丈夫なんだ」

「え?何か言いましたか?」

「ううん。なんでもない。気にしないで」

「はぁ…」


久井さんが何かを言っていたように聞こえたが結局何を言っていたかは分からなかった。


「そっか…環君は自分で前に進めたんだ…環君と一緒にいたら私も変われるかも…なんてね」


愛花は頭に浮かんだ考えにすぐに頭を振った。


こんなこと許されるはずがない。許されるはずがないんだ。私が環君に愛されたいだなんて…考えていいはずがないんだ。


もしそんなことになってしまえば原崎君はどうなる?全く違う容姿をしていたとはいえ私のことを好きだと言ってくれた原崎君はどうなる?


やっぱり許されるはずがない。


愛花は心の中でそう結論付けるとこれ以上このことについて考えるのをやめた。


「そろそろ時間だから帰ってもらって大丈夫だよ」


あれから数時間経ち、そろそろ業務終了時間になるというところで久井さんがそう声をかけてきた。


「久井さんはどうするんですか?」


そう聞くと


「私はもうちょっと残っていくよ」


と言った。


「そうですか。じゃあ俺は帰らせてもらいます」

「うん、お疲れ様」


そう言うと一度バックヤードに下がり店長に挨拶をして再びレジに戻る。


「お疲れ様でした」

「またね」


そう言って店を出ようとしたところで立ち止まる。


「どうかしたの?」


久井さんが不思議そうにそう聞いてきた。


「…久井さん。何か悩みとかありますか?」


久井さんに要領を得ないと思っておきながらも俺も要領を得ていない質問をする。


「え?そ、そんなのないよ?」

「…そうですか。でも何か悩んでるなら気軽に相談してくださいね。それじゃあ失礼します」

「あっ…」


久井さんは今日の業務中、ずっと何かを悩んでいるような表情をしていた。何に悩んでいるのか知らないし、もしかしたら何も悩んでいないのかもしれない。それでもあんな声をかけてしまったのはやはり家族との関係が前進して浮かれてしまっているからだろうか?


愛花は一人取り残された店内で考えていた。


「…どうしてわかったんだろう?」


もしかしたら表情に出ていたのかもしれない。でももし表情に出ていたとしたらきっとそれはほんの少しの変化だったはずだ。それに気づいてくれるなんて…


「環君…」


愛花は先程までここにいた少年の名前を呼んだ。


「…」


愛花は今まで誰にも本当の自分のことを気にかけて貰えなかった。だが愛斗はそんな愛花に自分を重ねていたために愛花のことを気にかけていた。


「嬉しい」


それが愛花が感じた感情であり忘れていた感情でもあった。


このことがきっかけになり愛花の心に掛かった錠前にヒビが入った。



【あとがき】


久しぶりの久井さん回でした。意図せず久井さんの心を開きかけている愛斗はこれからどうなっていくのでしょうか…

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