母親
私の人生は順風満帆だった。好きな人と結婚し、子供も二人授かった。子供は二人とも可愛いし夫はものすごく優しい。多分この時が人生で一番幸福な時間だった。でもそれは長くは続かなかった。
長男の愛斗が中学生になって何ヶ月かたった頃、私の愛する人が倒れてしまった。原因は過労。それからあっという間に夫は亡くなってしまった。
私は後悔した。それこそ後悔しても後悔してもしきれないほどに。今も後悔はしている。でも悔やんでいる暇なんて無かった。私には二人の子供が居る。あの二人は彼が生きた証で私の宝物だ。私の命に変えてでも守らなければならないものだ。
だから私は涙を流したいのを堪えて仕事に打ち込んだ。寝る暇を削って朝から晩まで働いた。そのおかげか会社ではそれなりの地位につくことが出来た。生活も裕福なものになった。
それは今の話だ。働き始めた時は子育てをしながらそんなこと出来のか?と不安で仕方なかったし案の定その不安はやってきた。当時中学生だった愛斗はもう大抵の事は一人で出来るようになっていた。でも奈那はまだ小学生だった。そんな奈那が母親に甘えることは当然だった。
甘えてくる奈那に構いながら仕事をする日々。子供の前では疲れた顔をする訳にはいかないと思い気丈に振る舞う。すると夫が亡くなってからずっと暗い顔をしていた奈那が笑顔を見せるようになっていった。私はそれが本当に嬉しかった。やっぱり私はあの人の子供を産んでよかった。素直にそう思えた瞬間だった。
でも私は忘れていた。奈那にかまけるばかりで愛斗もまだ子供だと言うことを。そのせいで今があるのに。
ある日、いつも通り夜遅くに仕事から帰ってくると愛斗が椅子に座っていた。
「愛斗…?どうしたのこんな時間に。もう寝なきゃいけないでしょ?」
私は暗がりに一人座っている愛斗に声をかける。
「…母さん、今日俺の誕生日なんだ。いや、違うな。昨日俺の誕生日だったんだ」
そう言われてドキッとした。顔に出ていないだろうか?忘れていた訳では無い。それは断言出来る。本当は今日誕生日パーティーをする予定だった。だが仕事の都合上出来なかった。
その事実が私に後ろめたさを与えて言葉を詰まらせる。
「もちろん覚えてるわよ」
当然だと、そう言うように断言した。
「…嘘だね」
「え?」
でも愛斗から帰ってきたのは嘘だと、何かを諦めたかのような言葉だった。
「それが本当ならなんでさっき気まずそうな顔したんだ?」
普段の愛斗が使わないような語尾になっている。ここで言ってしまってはサプライズの意味が無くなってしまう。それは避けなければ。
「それは…」
何か言わなければ。そう考えているうちに愛斗が言葉を発した。
「もういいよ。よく分かった。母さんは俺のことを愛してなんていなかったんだ」
愛斗の目は深く深く沈んだような、澱んだような曇った目をしていた。その目を見た瞬間悟った。私は間違えてしまったのだと。
「!!!愛斗!」
弁明しなければ。そう思い愛斗を呼ぶが愛斗は私に振り返ることなく二階に上がって行ってしまった。
「愛斗…」
私はただ愛しの我が子の名前を呼ぶことしか出来なかった。
次の日、仕事に行くためにいつもの準備をしていると愛斗が起きてきた。
「あ…おはよう、愛斗」
少しだけぎこちなく声をかけてしまう。昨日の今日なのだ。それも仕方ないと言えばしかないのでは無いだろうか?
「おはようございます。真希さん」
「!!!ま、まな、と?」
愛斗の口から出た言葉を聞いて血の気がとてつもない早さで引いていくのが分かる。
「どうかしましたか?」
それに敬語…
「え、お、お兄ちゃん?」
私がしどろもどろしていると奈那が愛斗に声をかけた。奈那も愛斗の様子がおかしいことに気づいたのだろう。困惑した様子だった。
「なんですか?奈那さん」
奈那に対しても愛斗は敬語だった。そんな…妹にまで敬語だなんて…
「な、なんなの?その他人行儀な喋り方…」
奈那がそう訊ねる。
「何って、俺に家族と呼べる人達は居ませんから」
何を言っているのだろう?私たちは間違いなく家族だ。
「ね、ねぇ、愛斗。どうしちゃったの?」
「そ、そうだよお兄ちゃん。そんな喋り方やめてよ」
本気で愛斗の考えていることが分からなかった。どうしていきなりそんなことを言い出したのだろう。
「自覚しただけですよ。俺は誰にも愛されることがないと」
「どうしてそんなふうに思ってるの?!」
そんなわけない。私は愛斗のことを心から愛している。私の大切な宝物だと、そう思っている。
「どうして、ですか。真希さんが散々教えてくれたじゃないですか。いつも俺より仕事優先のあなたが。奈那さんも教えてくれましたよ?半年も前から俺のことを無視してますし」
「違うの愛斗!それは!」
違う!そんなつもりで仕事をしていた訳じゃない!少しでもあなた達に楽に過ごして貰いたくて私は仕事を頑張ったんだ!
「わ、私もそんなつもりで無視してたんじゃ…!」
「安心してください。もう二人のことなんてなんとも思っていないので今更取り繕おうとしなくて良いですよ」
「っ!お願い愛斗、そんなこと言わないで…」
まただ。また愛斗の目が深く深く沈んでいる。
「お兄ちゃん、私が悪かったから!謝るからやめて!」
「落ち着いてくださいよ。分かってますって。二人には迷惑をかけないのでこの家に居させてください。お願いします」
そう言うと愛斗は深々と頭を下げた。っ!私はここまで愛斗を追い込んでいたの?自分の家である場所に住まわせてもらおうと頭を下げてお願いさせる程に?私はどれだけダメな母親なのだろう。
「そんなことしなくてもここはあなたの家よ!」
「お願いだからいつものお兄ちゃんに戻ってよ!」
私たちは口々に愛斗に呼びかける?
「いつもの俺…どんな人だったんですかね
自嘲気味に笑う愛斗の姿はとても痛々しく見えた。その姿がまた私の心を締め付けた。
「もう学校に行きます。あ、ここに住ませてもらってるだけでありがたいので朝ごはんのお金は必要ありません」
愛斗はそう言い残すとさっさと準備をして玄関に向かった。
「待って!」
「お兄ちゃん!」
私と奈那が呼び止める。だが愛斗は一度も振り返ることなく玄関を出ていってしまった。
その後ろ姿を見ながらただ立ちつくすことしか出来なかった私は本当に親の資格なんてあるのだろうか?
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