バイト初日

「ま、愛斗!」


綾乃が明るい声で背後から声をかけてきた。


「なんだ?」


手短にそう返す。俺は今日急ぎの用事があるんだ。


「もう帰るの?」


「綾乃には関係ないだろ?」


俺がどこに行こうと他人である綾乃には関係ない。だと言うのになぜ俺の行動をいちいち気にするのだろう。


「そ、そうだよね。あはは…」


綾乃が小さな声でそう言って力なく笑った。


「もういいか?」


「ぁ…えっと、うん。ごめんね。引き止めて」


俺はその言葉を聞いてから綾乃に背中を向けて歩き出した。目的地を目指すために。



よし、行くか。俺は覚悟を決めて古本屋、『嶋宮書店』に入った。今日は人生で初めてバイトをする日だ。


「こんにちは」


時刻は4時30分。学校終わりにここに来なければならないためそんなに長く働けないのが辛いところだ。



ちなみに昨日から何も食べていない。だからとてつもなくお腹がすいている。何とかして店長に交渉して即日払いにしてもらわねば…


「ぁ、こ、こんにちは」


店に入ると久井さんが声をかけてきた。…やっぱりこの顔見たことあるような気がするんだよなぁ…どこで見たっけ?分からない。


「今日からお願いします。久井さん」


「こ、こちらこそ」


オドオドしてるな。


「…」


「…」


2人の間に気まずい沈黙が流れる。


「そ、そういえばまだ自己紹介してませんでしたね。俺は環 愛斗(たまき まなと)です。高校二年生です」


この気まずい沈黙を少しでも紛らわせるようにそう伝える。


「わ、私は久井 愛花(ひさい あいか)です。高校三年生です」


久井さんも自己紹介し返してくれた。へぇ、久井さんって年上だったのか。少しだけだが会話出来て良かった。だがそこから話が全く続かない。


「俺、ちょっと店長に話さなきゃいけないことあるので後ろ下がりますね」


この気まずさに耐えきれなくなった俺はそれっぽい言い訳でこの場を離れる。



そしてバックヤードで本の整理をしている店長を見つけ声をかけた。


「店長、ちょっといいですか?」


そう声をかけると店長は直ぐに作業をやめて俺の方に向き直ってくれた。


「どうしたんだい?」


「その、給料を即日払いにしてもらうことって出来ますか?」


少し申し訳ない気持ちになりながらそう切り出した。


「それは構わないけど何か理由が…ありそうだね」


表情が顔に出てしまっていたのか店長は察してくれた。


「いいよ。今日のバイトの終わりに手渡しするから僕の所に来てね」


「ありがとうございます」


理由を聞かないでくれた店長には感謝しよう。こんなこと他人に言うことじゃないからな。



バックヤードから戻ると久井さんが声をかけてきた。


「あ、環君。その、今から仕事を教えるからついてきてもらっていいかな」


「あ、お願いします。それと久井さんの方が先輩なので敬語なんて使わなくて良いですよ」


そう伝えると久井さんは頷いた。


「う、うん。分かった」


どうして久井さんはこれほどまでに自信がなさそうなんだろう?コミュニケーションが苦手と言うわけでは無さそうだ。しっかり受け答えはできるし自分から話しかけることもできる。



でもずっと俺の表情を窺っている。まぁ俺が気にしても仕方の無いことか。そう思い久井さんの後ろをついて行く。


「えっと、まずはお客さんさんが戻し間違えたような本を元の場所に戻すところから始めようか」


「はい」


どうやらこの古本屋はジャンルで分けられているようだ。

ミステリーならミステリーだけの棚。ファンタジーならファンタジーだけの棚というふうにそれ専用の棚があるようだ。


「じゃ、じゃあやってもらっていいかな」


そう言われた俺は少し手間取りながらも何とか違う場所に置かれていた本たちを元の場所に戻すことが出来た。


「す、凄いね。初めてなのに…。私なんて初めての頃は2時間位かかったのに…」


俺のかかった時間は30分程だった。それをみた久井さんは俯きながら落ち込んでしまった。なんだろう、やはり久井さんの顔を見たことがあるような気がした。思い出せはしないが。


「じゃ、じゃあ次は…」


そこからいくつか説明を受けた。入荷された本を本棚に陳列したり本の紹介文やイラストなどを書いたりするPOPと呼ばれる作業など一通り。


「やっぱり環君凄いね…私なんて要らないね…」


褒められた後、久井さんは極端に声が小さくなったが俺はしっかりとその言葉が聞こえていた。そしてその時の久井さんの顔を見て既視感の正体を思い出した。



あぁ、そうか。この顔はいつも俺が鏡で見ている顔と同じなんだ。愛されなかった俺が全てを諦めた顔と同じなんだ。


「…」


そう理解しても俺は久井さんに声をかけることが出来なかった。だって気休めの言葉なんてかけて欲しくなんてないのだから。俺たちは愛されたかったのだから。



そして初日のバイトが終わった。言われた通り店長の元を訪れると店長が紙の封筒を手渡してきて


「はい、今日の分の給料だよ」


そう言われた俺は不躾だとは思いつつ店長の前で封筒の中身を確認した。


「え?ちょ、ちょっと待ってください。なんで5000円も入ってるんですか?」


俺が今日働いたのは4時30分から7時30分までの三時間だ。

この店の時給は1000円なので本来なら3000円が正しいはずだ。それなのに2000円も多く封筒に入っていた。


「せっかく真面目そうな子が来てくれたんだから最初の給料くらい多く渡しておかないとね」


店長は笑いながらそう言った。


「で、でも…」


「その分しっかり働いてね?」


やはり店長には何も言い返せなかった。それでも自分で稼いだ給料はとても嬉しかった。

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