第12話

 普段より早い時間帯に帰宅した父を出迎えると、これから何が起こるのかも知らないで鞄を差出し僕に預けた。


「珍しいな。孝多が出迎えてくれるなんて」

「あのね、実は相談があるんだけど」

「お、なんだなんだ。欲しいものでもあるのか?」


 仕事の疲れを感じさせず、快活に笑いながら革靴を脱いで玄関から上がる。ネクタイを緩めて僕を通り越しすとリビングで待つ母さんの元へ向かう。

 新婚夫婦じゃあるまいし帰宅後にお決まりの接吻キスを息子の前で恥ずかしげもなく披露してから、名残惜しそうに唇を離す。


 その母さんが間男と幾度も重ねている唇とも知らずに、なんとも呑気なことだ。冷蔵庫から缶ビールを取り出してテーブルに腰を下ろし、母さんは台所でおつまみの準備をする。


「孝多も飲むか」


 用意したコップの二つのうち一つを僕の席に置くと、頼んでもいないのにビールを注ぎ入れて母さんに咎められる。


「なにしてんの。高校生に勧めないの」

「はいはい。母さんは相変わらず固いんだから」


 頭を掻いて戯ける父さんに微笑む母さん   

 なんて微笑ましくて、なんて陳腐な喜劇なのだろう。目的がはっきりとした今、全てが偽物にしか見えない。

 一緒に笑っていた僕には、ハッキリと見えていた。二人の顔――皮膚の下に根を張った、醜い仮面の存在を。


「それで、相談ってなんだ?」


 二本目の缶ビールが底を尽き始めた頃になって父さんは件の話題を振ってきた。


「えっとね、実は……」


 対面では良き父親として息子に頼られることを心底喜んでいる父さんが、僕が持ちかけた「相談事」に前のめりになって耳を傾ける。全てを聞き終えるとほろ酔い気味だった赤ら顔から、すっかり血の気が失せていた。


「母さんが、不倫だって?」


 口に含んでいたビールを吹き出し、案の定というべきか僕が放った言葉に父さんは間抜けなほど目も口も開いていた。

「信じられない」と呟きながら、父さんはキッチンに立つ母さんに振り向くと絞り出すように言葉を紡ぐ。


「そ、そんなこと、ありえないよな?」


 問われた母さんの目はわかりやすく泳いでいたが、顔を引き攣らせながらも弁明を試みた。


「も、もうっ、何言ってるのよ。だって母さんはその日同窓会があったのよ?」

「ああうん。確かに同窓会はあったのは確かだけど、母さんが参加してなかったことはお友達に確認取ってあるよ」

「それ以上はやめないか」


 父さんが振り絞るように叫んだ。


「孝多も思春期だし、母さんとは折り合いが合わないこともあるかもしれないが、だからといって言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」

「冗談? よしてよ。僕がそんな低俗な理由でこんなことするもんか」


 まるで見当違いな指摘に、僕は早々にを切り出すことにした。


「見ちゃったんだよ。母さんが若い男とホテルに入っていくところを」


 印刷しておいた写真の数々をテーブルの上に広げ、愚かな父さんが知らなかった真実を懇切丁寧に教えてあげた。


「は?」


 それまで築き上げてきた家族の仮面に、大きな亀裂が入る音が聴こえた。

 それから僕は締まりの悪い小便のように、ぽたぽたと言葉を一言一言紡いでいった。

 我ながら呆れるクオリティーの演技だけど、尾行をしてまで盗撮した母さんと若い男性がラブホテルに入っていく瞬間や、仲睦まじく腕を組んで出てくる瞬間を捉えた写真を。


「お、おいおい……何なんだよこれ。母さん、夜に出掛けていたって、お前……本当にこんな若い男とホテルに行ってたのか? 嘘だよな? たまたま似たような女性と見間違えたんだろ。はは……そうだよ、そうに違いない」


 必死に母を庇う父さんをよそに、母さんは唇を震わせ言葉をなくしていた。それが答えだと証明していることに父さんも気づいていたに違いない。

 ダメ押しにあられもない姿を保存したR指定のDVDを、最大音量でリビングのテレビから流すとキッチンから飛んできた母さんはすぐさまリモコンで消して、金切り声をあげながら僕の頰を容赦なく叩いて、叩いて、叩いた。


「あんた、なんてことをしてくれたのよ!」

「やめろ! よさないか!」


 なおも殴り続けることを止めようとしない母さんを、父さんは羽交い締めにして取り押さえる。なおも暴れる母さんの顔は、獣そのものだった。ダラダラと垂れる鼻血を拭きながら、僕は親切にアドバイスをかけてあげた。


「あのさぁ、スマホのロックくらいかけようよ」


 笑うと吹きでる鼻血を拭き取りながら教えてあげると、床に崩れ落ちた母さんは両手で顔を覆うとひたすら嗚咽を漏らして泣き出した。その傍らで父さんは突きつけられた現実に耐えられず、放心していた。


 ようやく有るべき形に収まったと満足した僕は、一人腹がよじ切れるほど高笑いをした。

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