第11話
「アンタ、近頃ボーッとしてばっかじゃない。一体どうしたのよ」
「……え? いや、別に」
夕食時、いつも通り残業で夜遅くなると父さんから連絡があり、一家の主を待たずに我が家の食卓には母さんの手料理の数々が所狭しと並べられ口をつける前から僕の胃袋を辟易させていた。
「ハンバーグの味はどう?」
正面に座る母さんに手料理の味の感想を求められるのは毎度のこと、答えを誤ると途端に機嫌を悪くするから面倒くさいことこの上ない。こういうときばかりは夕飯を外で済ませてくる父さんが羨ましくも思う。それにしたって――いくら残業代を稼いでこようが良き主婦としての虚栄心を満たす為の散財に母さんは余念がないので、家計の収支はトントンか下手したらマイナスだと予想する。
夕飯の食費にしたって下手な外食より金がかかっているのだから、父さんも無駄な勤労ご苦労さまとしか言いようがない。唯一安心して口にすることができるサラダを咀嚼しながら、「まぁまぁじゃない?」と無難に答える。
「もう。いつもそうやって適当に相槌するんだから」
母さんの小言は左から右に受け流し、先日見てしまった光景を何度も反芻していた。僕は、これまで何を信じていたのだろう――。
地動説ばかり信じていたら、これまで考えたこともなかった天動説なる新説が登場したような、例えるならそれくらいの衝撃を感じたのは確かだった。
するとどうだろう。日常という景色に歪みが生じて亀裂が生まれる。亀裂は新たな亀裂を呼んで、隙間を押し広げていくではないか。その下に隠れていたのは――。
火が通り過ぎた挽肉の塊は苦い味を残してボロボロと崩れてく。
「そうそう、お母さん来週は同窓会で家を空けるから、ご飯はチンして食べてちょうだいね」
「ああ……うん。また夜遅くなるの?」
「そうね。鍵だけは締めておきなさいよ」
「はいはい」
箸を置いて口の中の不快感をお茶ですすいでから適当に相槌を返すと、空いた食器をシンクに運びながら懐メロを口ずさんで食器を洗い始める。
良き母を演じてる母さんは浮ついた誘いの類は毎回断りを入れていたのだが、ここ最近は見慣れぬ派手な装いと化粧を施して家を開ける頻度が増えていた。昼に出掛けることもあれば夜に出掛けることもある。
「で、私を呼び出したと思ったら尾行に付き合えですって? どんだけマザコンなのよ」
「マザコンっていうな、ただ気になっただけだよ」
ベッドがあるにも関わらず、わざわざ四つん這いになった僕の背中に腰掛けていた瑛美は、不満を漏らしながらも嬉々としてうなじに蝋燭を垂らしては豚を虐げることに余念がなかった。
あの日以降、僕は瑛美に「これまでと変わらずにうちに来るように」とだけ約束をしていた。約束通り瑛美は我が家に訪れ、変わらず僕を罵りイジメ抜く毎日が表面上は続いている。
浮浪者のもとに訪れていた理由は未だに尋ねていない。聴いたところで素直に答えるわけもないことは百も承知だったし、誰も知らない自分の一面を見られて相当悔しいことは僕の体に乱暴に残されていく傷の多さで窺い知ることができた。
「ところで、おばさんが不倫してるってホントなの?」
「うん。今時スマホにロックもかけてない化石みたいな人だからね、チェックしたら証拠が出てきたよ」
「親のスマホ勝手に覗き見るとかキモ……」
「それにGPSアプリを仕込んであるから、どこ行ってもバレバレ」
母さんの不審な言動を怪しんだ僕は、隙をみてスマホを中身をチェックしたのだけれど出てくるわ出てくるわ。年甲斐もなく若い燕と思わしき男性との赤面物のやり取りを頻繁に交わしている物的証拠の数々が。
「見てみなよ」自分のスマホに転送した写真を瑛美に突き出すと、瑛美の整った顔が途端に歪む。その写真はチープな内装のラブホテルのようで、被写体は母さんと見知らぬ男の二人。どちらもバスローブ姿で、母さんは肩を抱き寄せられながら家族にも見せたことがない笑顔をレンズに向けながら弄ばれていた。
これだけでも不倫の証拠としては裁判でも十分争えそうな代物だが、僕のスマホにはその他にも似たような写真や、それ以上に過激な動画が保存されている。さすがに他人に実の母親の破廉恥な行為を見せるほど人格は破綻してないつもりだが、密会相手は複数人に及び、そのどれもが恍惚の表情を浮かべている母の姿を写し撮ったものだった。
とんだ「良き母親」ではないか。
しかし軽蔑をしたかといえばそんなことはない。理性を放棄した一匹の獣が狂い吠えて、それは瑛美と通じる美しさを内包していたから。なにより生き生きとしていたし、見知らぬ男性の手で良母の仮面を剥ぎ取られた彼女は全身で生の悦びを感じているようにみえた。
「どうするのよコレ。黙ってたほうがいいんじゃない?」
いつの間にか僕を責立てることも忘れて、瑛美は訊ねてきた。
「いや、それよりも面白いことを思いついたんだ」
数々の証拠を覗き見ていたとき、ふと天啓ともいえるアイデアが閃いた。
自ら被った仮面がそんなに窮屈だと感じるなら、僕が外す手解きをしてあげようと。
未だ野村くんに返すことができていない文庫本を擦りながら決心した。
みんな仮面を剥いで欲に忠実になれば、もっと楽しく生きられることを教えてあげよう。僕も、みんなも、これまで通りではいられない。
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