第10話
橋脚に引っかかっている流木が、今年の台風の名残を残している。河川敷のグラウンドでは少年たちが野球の練習に励んでいた。
そこから下流に下っていくと人の背丈を優に超える高さの
その昔、浮浪者が児童を連れ込む猥褻事件があったこともあり学校から近づかないようにと小学生の頃再三注意を受けたこともあった。
川と川を繋ぐ橋桁の下には人目を偲ぶようにブルーシートで覆われたテントが点在し、一夏の間に大人の背丈の倍以上に成長する葦は、「彼岸」と「此岸」を分け隔てるように群生している。
「でも、なんで瑛美があんな場所に……」
疑問に思った僕は無意識のうちに瑛美の背中を小走りで追いかけていた。辺りをキョロキョロと窺いながら葦の中に姿を消していく姿は、どことなく周囲を警戒しているように窺える。
バレないように後をつけると、どうやら人一人歩けるほどの獣道に似た通路が作られているようで、道なりに進んでいくとほどなくして開けた空間に辿り着いた。そこには木材やダンボールを継ぎ接ぎして作った小屋で世捨て人の集落が築かれている。
「うわ……これは臭すぎるな」
集落に足を踏み入れると、顔をしかめずにはいられないレベルの臭気が鼻腔に爪を立ててきた。自らの体臭と比較にならないほどに強烈な腐臭。そこかしこから立ち昇っているのは真夏の動物園の檻から漂う獣臭を凝縮したような殺人的な臭いだった。
鼻を手で覆い辺りを見回すと、そのうちの一軒から微かに風に掻き消されるほどの声量で啜り泣く声が漏れ聞こえてきた。
――瑛美の声?
ゆっくりと音をたてずに、気配を殺して忍び足で近付いていく。次第に強くなっていく強烈な臭いと近づくにつれハッキリと聴こえてくる声に無意識のうちに生唾を飲み込んでいる自分がいた。
嫌な予感しかしなかったが僅かに開いていた玄関から息を殺して中を覗き見ると、まだ陽も傾いていない時間だというのに小屋の中は夜を落としたような暗がりが二畳ほどの空間を支配していた。
「ごめんなさい……許して」
闇の中で獣が鳴いていた。組み伏せられてると表現したほうが正しいのかもしれない。
徐々に暗がりに慣れていく目は、僕に気づきもせずにまぐわい続ける男女を映す。
背中しか見えない男性は理性という
鳴きながら、「やめて……やめてください……」と許しを乞い、涙と鼻水で顔を醜く崩しながら言葉とは裏腹に蹂躪されているにも関わらず、スカートから伸びる両足を男性の腰にしっかりと回していた光景に僕はただ呆気にとられながら覗き見ていた。
――なにを、してるんだ?
ただ快楽を貪る為に腰を振っている浮浪者と、情けない音が響くたびに理性と本能の間で快楽を貪っている女の喘ぎ声が、
特等席で覗かれていることにも気付かずに恍惚の顔を曝け出している女性は、生島瑛美に他ならなかった。
普段から僕のことを「豚」と蔑み、抗いがたい魅力を放っていた女王の貫禄はそこには一片たりともない。分厚い鉄仮面は、汚らしい男にいとも容易く剥ぎ取られていた。その下から覗いていた顔は、暴力に屈する脆弱な少女のそれと変わらず、人をいたぶることに快感を感じていた人間と同一人物とは思えないほど嗜虐心を煽る嬌声をあげていた。
ああ……僕の知っている女王は死んだんだ。
突然頬を殴られたような衝撃に、次第に大きくなっていく嬌声遠くに聞こえる。
普段被っている仮面を剥ぎ取ってしまうと、支配者と被支配者の立場というものはこうも容易く入れ替わってしまうのか――。
もっと眺めていたい。そんな気持ちが先走り、もう一歩近付こうとしたのが誤りだった。足元の注意が疎かになり小石を蹴ってしまうと、辺りに異音が響いてしまった。小屋の中に緊張が走り、慌てて上半身を起こした男が振り向きざまに吠えてかかった。
黄ばんだ乱杭歯をむき出しにし、口角には唾が泡立ち血走った目は招かれざる客である僕に殺意を向けている。視線が合った時間はほんの僅かだったはずだけど、足が震えた僕は情けないことにその場で尻餅をついてしまい、満足に逃げることもできなかった。
「おいガキ、オメェなにしてんだ!」
幽鬼のように立ち上がる男の下半身には、萎びたイチモツが垂れ下がっていた。
「なんの騒ぎだぁ?」
背後から続々と声が聞こえ、振り返ると浮浪者達がわらわらと姿を現し闖入者である僕に胡乱な視線を向けてきた。彼らの手には先の尖ったビール瓶や鉄パイプが握られ、中には錆びついた牛刀を手にした者までいる。
逃げ場をなくし、にじり寄られて万事休す――といったタイミングでとっさに機転を利かせた僕は、ポケットの中に手を突っ込むと野村くんに手渡されたお札を取り出し、その場に投げ捨てた。
すると一瞬にして浮浪者たちの視線は地に落ちたお札に注がれ、我先にと群がり始める。凶器は仲間に向けられ取っ組み合いを始めた隙に、ポカンと汚い口を開いていた瑛美を組み伏せていた男を生まれてはじめて思い切り蹴飛ばしてやり、後頭部を強かに壁に打ち付けて悶絶してる間に呆けていた幼馴染みの手を取り逃げ出した。
怒声を背中に浴びながら河川敷まで逃げ切ると追手が追いかけてくることはなかった。
平和そのものの住宅街を歩いていた僕は隣を歩く瑛美をちらと盗み見ながら、どうしてあんなところにいたのか、どうしてあんな行為をしていたのかを考えてみた。
牧歌的な空気が漂う平和ボケした街の片隅であれほど陵辱をされて悦びに打ち震えていた瑛美の本性とは一体――。
小屋から逃げ出してから黙ったまま俯いている瑛美の内腿、頼りなく風に揺れるスカートの下の柔肌には獣欲の跡が艶めかしく伝っていた。
それを見た僕は気持ちが昂り、断りもなく瑛美を抱きしめた。普段であればありとあらゆる罵詈雑言をぶつけられるであろう愚行にも反応を示さず、「誰にも言わないで……」と体を震わせて小さく呟くのみだった。
もしかしたら脅されるとでも思ったのだろうか。
「大丈夫。誰にも言わないよ」
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