第9話

 スマホを常に手放せなくなり、それまで連絡先なんて知らなかった野村くんから業務的なメッセージが届くと心が踊ると同時に憂鬱な気分に襲われる。

 昼だろうが夜だろうが、平日だろうが休日だろうが、命令されたとおりに客の自宅の中、車の中、深夜の公園、電車、あらゆる状況で男の欲の痰壺たんつぼと化した僕は最初こそ嫌悪感に押し潰されそうになったものの、次第に「こんなものか」と感じるようになっていた。


 野村くんに「客を満足させるために演技くらいはしろ」と注意をされたので、嫌われないようにそれとなく演技はしていたものの幸いにも客に怪しまれることはなかった。様々な客の要望に応えていくうちに、体の内側は渇いていくばかりだった。誰一人として僕を満たしてくれるものはおらず、皆一人で欲求を吐き出して満足し去っていくばかり。


 身も心も摩耗する日々を繰り返すうちに、いつの間にか秋の気配が近づきつつあった。

 とうとう最後の客となった男の注文は、平日の校舎で『体操服を着たまま』それも『体育倉庫のマットの上で』なんて、特殊すぎるシチュエーションがご所望だった。 

 一体全体僕の体に真っ昼間から不法侵入を試みてまでして、陵辱する価値があるのか甚だ疑問ではあったけど、僕の上で腰を懸命に動かす痩せぎすの客を眺めているうちに、そんな疑問さえどうでもよく思えた。


 さっさと果ててくれ――。


 願いが通じたのか、「うっ」と、短く唸り線香花火の火玉が落ちるよりも早く僕の体操服の上に白いシミを残して、幾許かの対価を支払うと恥ずかしそうに足早に去っていった。


「うわ、最悪……汚れ取れないじゃん」


 欲をぶち撒けられた体操服では午後の授業に出ることも難しく、さてどうしようかと寝転がったまま思案を巡らしていると客が去っていった扉から野村くんが姿をみせた。


「お疲れさま。晴れてノルマ達成だね」


 そう言って片手を差し出してきたので、諭吉を三枚手渡すとようやく笑顔を見せてくれた。当初の十万は知らぬ間に二十万に跳ね上がり、体で稼いでる間も「利子」と称して膨れ上がっていった。

 最終的には四十万円を稼いだことになる。闇金でさえもっと良心的なのではと思わなくもなかったけど、これで野村くんとの関係がまた途切れてしまうと思うと無性に悲しくなって寂寥せきりょう感に襲われる。


 野村くんは倉庫の片隅に置いてあった跳び箱の一段目を外すと、隠していたビデオカメラを手に動画を確認する。その間も惚れ惚れするほど様になる支配者の横顔を眺めていると、体育着の下で勃起するには十分な魅力を感じた。


「いつも動画を撮ってるけど……それ、どうするの?」

「これ? 馬鹿な客を強請るためだよ。そうするとあらビックリ。一月でウン百万円も稼げる錬金術の誕生さ」


 正面に立つ野村くんの底の知れぬ欲深さの一端に触れた僕は、もっと彼のことを知りたいとこいねがう。


「そうそう、コレやるよ」


 おもむろに財布から取り出したのは、裸のお札。少なくとも十万円はくだらなそうだった。


「頑張ってくれたからね。ノルマから差し引いた分の給与だよ」

「ああ、うん……ありがとう」

「さて、今日の客からは幾ら引っ張れるかな〜」


 野村くんは暢気に鼻歌を歌いながら去っていった。しばらくするとスマホが震えたので確認すると、『体育は体調不良で休むって代わりに伝えておく』なんて初めて私的なメッセージが届いたので、嬉しさのあまりその場で小さくジャンプをして喜びを表現した。


 つい先程まで猛っていた痕を残すマットに寝転ぶと、小さな窓枠の向こうに底が見えないほど透き通った青空が広がっていた。飛行機が一機、空高くに真っ直ぐな糸を引いて飛んでいる。得も言われぬ歓びが下腹部から今にも溢れ出さんばかりの勢いで膨張していた。

 マグマのように熱く、冷めることを知らぬ衝動に駆られた僕は、再び体育着とパンツをずり下ろしてあらわにする。倉庫内に微かに残る野村くんの残り香を懸命に探しながら、一人自慰を始めた。


 これまで弄ばれ続けた記憶に上書きするよう操縦桿を握り、青空の果ての宇宙空間まで飛び出してやろうと掌に力を込める。 

 漏れる吐息が次第に荒々しくなる僕をよそに、校庭からは青春を謳歌している同級生の声が聴こえた。

 隔絶された世界――体育の授業が始まった事を告げるチャイムの音が校内に鳴り響く。鐘の音に負けじと豚の鳴き声で叫んだ瞬間、思いの丈が倉庫の天井高くまで一筋の弧を描いて飛んでいった。普段の自慰でも、瑛美の手でもついぞ届くことがなかった目眩く世界まで。


 マットの上で脱力していると、床に一冊の本が落ちていることに気がついた。それは黒いブックカバーで覆われたいつか野村くんが読んでいた文庫本だった。


「おう、体調悪かったんだってな。次からは事前に連絡を寄越せよ」

「はい、突然休んですみませんでした」


 その日の放課後、僕は「具合が悪かった」とお尻を庇いながら、真実を織り混ぜた決して嘘ではない言い訳を体育教師に釈明して事なきを得た。

 野村くんが前もって約束どおりに事情を説明してくれたことで教師も疑ってかかることはしなかったようだ。さすが優等生というか、何をしても怪しまれる僕とは大違い。


 学校を出たあと、すぐに帰宅する気も起きず母親の顔を見るのも億劫だった。

 気晴らしに近くを流れる河川の遊歩道を当て所なく歩いていた。対岸にはいつの頃からか白い墓標を思わせるタワーマンションが乱立するようになり、「自称」セレブの住民が増えたような気がする。


 遊歩道では迷惑そうな顔のランナーが歩行者を縫うように器用に走り抜け、踏んだら潰れてしまいそうなほどの大きさの小型犬を引き連れている中年女性は飼い犬が当たり構わず残していく糞の後始末もせずに知らんぷりしていた。

 自転車で二人乗りをしている女子高生は、まるでこの世界の主人公は私とでも言わんばかりに流行りの歌を熱唱しながら迷惑な蛇行運転していた。


 どこを歩いてもありふれた日常しか広がっていない。平和すぎて、退屈すぎて、息が詰まりそうな世界しか存在しなかった。 

 一人だけ日常から取り残されたような虚無が心を支配する。途端に無為に時間を消費しているように思え、仕方なくもと来た道を戻ろうと踵を返したその時――河川敷に降りていく瑛美の背中を目撃した。

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