第8話

 太陽光を遮るものが何一つない晴天の下、部活に精を出す運動部の喧しい声が非常階段の踊り場まで聴こえてきた。

 誰も訪れることのない校舎の一角は、真面目ぶった生徒が通う私立校にも一定数存在する格好ばかりの不良の溜まり場となっていた。その不良達は突然踊り場にやってきて芳しい香りを振りまいて現れた野村くんと、首に鎖を繋がれたように従順に後をついてきた僕の姿を交互に眺めると関わりたくないとばかりに退散していく。


 邪魔者は他におらず、しかも今日は例の取り巻きはいない。二人きりという最高のシチュエーションに酔いしれながら、急遽野村くんから呼び出されたことに胸を高鳴らせていた。まるでこれから告白を待つ女子のような気恥ずかしさを覚える。


「じゃあ、今日から約束通り稼いでもらうから」


 スマホを弄りながら、しかし内容はついぞ教えてもらえなかった。額が額なだけに僕が怯えてるのでは――そう勘違いした野村くんは滅多に見せることのない笑顔を見せて話を続ける。


「大丈夫大丈夫。なにも危険な仕事を頼もうなんて思ってないから。安い時給であくせく働かされるより、もっと簡単にもっと楽に稼げる仕事だから安心して。なんなら他にも似たような仕事を紹介してる人だっているし」


 さすがにホワイトな仕事を紹介されるとは微塵も思ってはいないけれど、これから一体どんな無理難題を命じられるのか想像するだけで制服のファスナーがはち切れてしまいそうなほどパンパンに膨れ上がり強く脈打っていた。局部に血液が集中しすぎたせいか、軽く目眩を覚えるほどだった。


「そうだね……今日は初めてだし、これから一時間弱働くだけで一万円稼げる。どうだい?」


 温度を感じさせない瞳に射抜かれるように見つめられると、遠慮なく視姦されている心地になり一人達してしまいそうになった僕は、慌てん坊な下半身の栓を急いで閉じた。


「わ、わかった。僕、やるよ」

「うん。その意気だ」


 野村くんは目尻を細めると頷き、非常階段を小気味よく駆け上っていくどこかに電話を掛け、普段聞く機会のない敬語でやり取りをしだした。申し訳ないとは思いつつ盗み聞きをしていると、「複数人」「前払い」「繰り越し」といった単語が途切れ途切れに聞き取れた。電話の相手が目の前にいるように深々とお辞儀をすると、「じゃあ、頑張ろっか」と爽やかに僕の肩を叩いて、その仕事とやらの詳細を聞かぬまま初仕事とやらに出向くことになった。


「オエ……」


 漏れると叫びながら公衆便所に飛び込む児童をよそに、僕は水道の蛇口を前回に捻って鉄サビ臭い水道水で何度も口を濯いでいた。

 まだ口内のどこかにタンパク質の絞り滓が残っているようで、いくら濯いでも洗い流すことのできない嫌悪感に耐えかねた僕は幾度も排水口に向かって吐き続けた。喉の奥に指を突っ込んで自ら嘔吐を繰り返し、それでもなお気分が楽になることはなかった。


 拭い難い記憶は、僕の精神を蝕んでいく。


「まあ、初めてだし? 最初はそんなもんだよ」


 微かに柔軟剤の香り漂うハンカチを差し出し、嘘でも気遣ってくれた野村くんの言葉にいくらか救われた。その横で合流した金魚のフンである取り巻きたちが、「お前もやってもらえよ」と互いをどついて冷やかしている。


「誰がお前らの相手なんかするかよ」と、ボヤきながらしつこく唇にまとわりついていた陰毛を指で取り除くと生々しい記憶が蘇った。

 野村くんが紹介してくれたアルバイトというのは――男が好きな、それもとびきりブサイクな、かつ高校生以下が好きだというなんとも歪んだ性癖の男の相手をすることだった。

 メニュー如何によって金額が変わるらしく、中には到底理解ができないコースまで用意されていた。


 一時期はてっきりその気が自分に備わっているのだろうか、と悩んだ時期もあったけれど、今日これでハッキリとわかったことがある。僕はマゾヒストでもなければ、ゲイでもないということを。そこでまた自問自答を繰り返す――でなければ、彼に抱くこの感情はなんなのか。それは未だわからない。


 生まれて始めて男相手に性処理を行った日から、僕は見知らぬ人間の性処理道具と化し野村くんの命令に従って連日僕を求める客の相手をするようになった。

「それじゃあデリヘルと変わりはないわね」と、嘲笑いながら瑛美は蒸れた生足を僕に舐めさせ、それはそれは愉快そうに腹を抱えて笑っていた。彼女もまた普通ではない。普通なら怒って然るべきそのリアクションに、「確かに」と一瞬でも納得してしまう自分も、いつからかそういった行為に慣れを感じていたのだろう。


 僕もまともではなかった。慣れとは恐ろしい。変態の欲望には際限がない。果てがない。速度を増して地の底深くまで堕ちていく。

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