第4話
低層二階住宅の戸建が立ち並ぶ画一的な住宅街を、今日もボロボロになりながら西陽を背に歩いていた。
背中を丸め、日陰者らしく人目を避けるようにこそこそと歩く仕草がすっかり体に染み付いている。
定刻を告げる町内放送がスピーカーから流れ始めると、近隣の民家から漏れ聴こえてくるはしゃぎ声、子供を叱りつける母親の声に耳を塞いだ。
換気扇から垂れ流される平凡なレトルトカレーの香りに、「幸せ」とはいったいなんなのか答えを探してみたがいくら考えても答えは見つかりそうにない。
僕にはとても解けない難問なのかもしれない。
道端の小石を蹴り飛ばすと思わぬ方向へ転がっていき側溝へと落ちていく。僕を気味悪がっている不良たちの言葉がふと脳裏に蘇った。
『お前さ、こんだけイジメられて笑ってるなんて変態なんじゃねぇの?』
僕のような人種を乱暴に一まとめにすると、世間一般的には「マゾヒスト」と呼ばれるらしい。改めてネットでその単語が意味するところを調べると――肉体的、精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る――と紹介されていた。
そこだけ切り取ってしまえば、まんま自分に当てはまるが果たしてそうなのだろうか。
普通を嫌悪するくせに自分という存在はいったいなんだと躍起になっている自分が、いかにも「普通」の思春期らしく可笑しくなった僕は人目も憚らずに声高らかに笑った。
近所の窓やベランダから、不審者を監視するような視線を感じたが、それすら清々しい帰り道だった。
学校から帰宅すると、生活感を排除した玄関に見慣れた革靴が置かれていることに気付いた。ブラウンの厚底タイプ――たかが数センチをかさ増しすることに躍起になる感性が僕には理解ができないが、僕に同意や理解をされたところで人類の半分となる女性にとっては迷惑千万だろうけど。
「はぁ……勝手にウチに来るなってあれほど言ってるのに」
僕の言うことを全く聞き入れる気がない腐れ縁の幼馴染みと、その幼馴染みを勝手に上げるなといくら伝えても、簡単に上げてしまう母さんの目も当てられない迂闊さには随分と昔から辟易させられていた。
キッチンから食材を切る包丁の音が届く。若かりし頃にピアノを齧っていたという母さんの包丁捌きは、三六五日メトロノームのように正確なリズムを刻み、辛気臭い家をさらに陰気臭くセピア色に染めていた。
漂う香りは複雑に配合されたスパイスの香り。母さんお手製のインド風カリーはコスパ最悪。料理好きといえば聞こえはいいけど、「味覚がまともに働いていないのでは」と疑うほどの出来。その他の料理も一から出直してほしいレベルである。
願わくば口にはしたくないけれど、口にしなかったらしなかったで堰を切ったように怒りをあらわにするピーキーな性格なので仕方なく、いやいや食べる他選択肢はなかった。
静かに玄関の扉を閉め、そっと物音をたてずに二階の自室に上がろうとするとキッチンから聞こえていた包丁の音がぴたりと止まり、同時に僕の足も止まる。
「あら、お帰りなさい。今日も瑛美ちゃんが遊びに来てるわよ」
いつも気配を殺してるというのに、何故だか勘付かれてしまうのが謎である。振り返ると似合わないエプロンで手を拭いている母さんが立っていた。手にしていた藤のバスケットに目がとまる。菓子がこんもり詰められ、ようは「二階に持っていけ」という意味が込められてることは即伝わった。
「ていうかさ、なんで瑛美を勝手に上げるわけ」
「コラ、わざわざ遊びに来てくれたエミちゃんにそういう冷たい言い方しない」
瑛美が我が家に訪れると有無を言わさず晩御飯はインド風カリーに変更される。
そして決まって罰ゲームに近い晩御飯をご馳走して帰らせていた。瑛美が「片親」だからという理由で、「一人親の子供は可哀想だから」と歪んだ価値観からくる同情心を隠そうともしない。
母さんの思想には毎度のこと吐き気がするが、瑛美はそんなヤワな玉じゃないことを母さんは知らないし、これからも知ることはないだろう。
「二階で待ってるから、ついでにこれ持っていきなさい。普段こういうの食べてないだろうし、ウチに来たときくらいは、ね」
一度下に見た人間に憐憫に満ちた物言いをするのは、中途半端なお嬢様育ちからくる特有の思想なのか。無遠慮な上から目線の優しさは、弱者を単純な暴力で虐げるだけの自慰行為と何ら変わりないことをこの親は知らない。
無言でバスケットを受け取り、重い足取りで二階に上がろうとすると、今度は一転して冷ややかな声が背中に刺さった。
「孝多。もしかして……まだ学校でイジメられてるの?」
その問いかけに一瞬立ち止まるが、「別に」と簡潔に答え二階へ駆け上る。
「いい子であれいい子であれ」と、物心つく前から両親に過度に期待されて育てられ、一応は勉強で落ちこぼれないように成績だけは中の上辺りを維持していた。いずれ迎えるであろう大学受験は父さんと母さんが卒業した難関校に入学することを約束させられている。なんでも、それが人生における成功の常道だと強く熱弁され、しぶしぶ条約を結ばれる敗戦国のように調印した。
そして彼らは「失敗」を認めない。息子がいじめられてるなんて知ったら、それは彼らの「失敗」に相当するから。
ていうか、その有名大学を卒業した両親をそばで長年観察したところで、ちっとも成功例とは思えない。それなのに我が子に同じレールを歩めと、同じ轍を踏めと強要してくる両親を前に僕は反論することを早々に諦めることにした。
経済的に独立をするまでは、両親が求める理想の仮面を被ってさえいれば余計な波風は立たなないと考えた上で、今も良い子を演じている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます