第3話

 自分が、いわゆる「普通」でないことに気づいたのは、小学生の頃だった。

 その頃から既に立派ないじめられっ子として他の追随を許さない地位を確立していたわけだけど、当時の僕は決して周囲の大人にいじめられている現状を明かすことをしなかった。

 報復を恐れていたわけではないけれど、では一体どうしてSOS《助け》を発信しなかったのか、幼いながらも自分の内面と向き合い自問自答の末に辿り着いた答えに唖然としつつ、しかし納得したことをよく覚えている。僕のアイデンティティが確立された記念日だ。


「そうか。僕は、どうやって虐めてくれるのかを期待していたんだ」


 年を経るごとに体は渇いていく。いくら水をかけても吸収してしまう砂漠のように、こうした感情が世間一般でいう「普通」でないことは自覚していた。ノーマルではない、アブノーマルである感情であることを。 

 普通でない僕の切なる願いは唯一つ。唯一つだけだった。


 どうか、この底知れぬ欲求を、誰でもいいから満たしてくれないだろうか。


「ねえ。まだ終わらないの?」


 自分にも、この世界にもウンザリしていたところに凛とした声が響く。

 それは福音。今の今まで僕の頭を踏み続けていた靴底から薄氷を踏むような緊張感が伝わる。

 声の主は一枚の絵画のモデルのように公園の片隅のベンチに腰掛け、ボロ布のように転がっている僕を一顧だにすることなく優雅に足を組みながら、ブックカバーで覆われた文庫本に目を通していた。きっと「ジュンブンガク」のような知的な小説をたしなんでいるに違いない。


 うっとりと、直截的に言ってしまえば「興奮」しながら、僕はゲロまみれで欲まみれな視線を野村勇斗くんに送っていた。不良はというと、声を引き攣らせ腰が引けていた。

 多少は腕に覚えのある不良でも、高校一年生にしてフルコンタクト空手で全国優勝を果たしたという野村くんに反抗できるわけもなく、暴力の申し子であるべき彼らもまた強者に支配される立場であることには違いなかった。


「ほんと君達ってさ、いざっていうときに使えないよね。ご自慢の暴力さえ通じなかったらあとになにが残るっていうんだよ」


 退屈そうに欠伸をする野村くんの顔を、僕は不敬と知りながらも胸を高鳴らせ仰ぎ見ていた。そんじょそこらのアイドルでは太刀打ちできない御尊顔から目が離せず、ゴクリと生唾を飲み込むと彼と視線が絡み合った。心拍数が急激に跳ね上がり、息苦しさと顔に熱が帯びていく感覚に酔いしれた。


 野村くんと出会ってから――もしかしたら僕は「男性」が好きなのかもしれないと真剣に頭を悩ませていた時期があった。

 未だ女性相手に初恋というものを体験したことがなく、クラスメイトの卑猥な会話にも興味が持てず、かといって野村くん以外の男性にドキドキしたり、ましてや性的興奮を覚えることなど一度もなかった。


 手を伸ばせば精巧な作りの顔が指先が届く位置までやってくると、甘く爽やかな柑橘系の香水の香りがニキビが目立つ団子っ鼻を優しく撫で、そして僕の身体は幸せに包まれる。


 野村くんは僕にとって燦然と輝く太陽そのもの。蒼く広がる大空から、彼の意思に関係なく地面に這いつくばる僕はその熱に容赦なく焼かれていく虫ケラ。

 ふと、彼の肩越しに天を衝く入道雲がのぞいていた。放っておけば成層圏まで達しそうなそれは、まるで僕の底しれぬリビドーと比例するようにどこまでも高く成長を続ける。


 いつからか僕の中で神格化した野村くんに、このような下劣な感情を抱くのは万死にあると理解した上で、それでもこの命を代償にしても妄想の中で抱きしめられずにはいられなかった。


 真っ暗な宇宙空間で絶えず灼熱に燃え盛っている太陽は、一秒間あたり広島に落とされた原爆の九兆個分にも及ぶエネルギーを放出しているというけど、地球に到達するエネルギーはその二十億分の一まで減少してもなお、直視することは叶わない。

 野村くんもまた、触れることもできなければ直視することすら難しく、所詮僕は蝋の羽を背負ったイカロスでしかない現実に何度も打ちのめされる。


「なあ、杵柄」


 膝が汚れるのも厭わず屈んだ野村くんは、クラスメイトから「陰毛」とことごとく馬鹿にされている僕の髪を荒々しく掴むと無理矢理引き寄せた。あまりに突然の出来事に、「ヒュ」と、声にならない声が漏れた。「完璧」とは、野村くんのためにある言葉としか思えない。神がもたらし給うた奇跡のギフト。それだけに飽き足らず、天は彼に二物も三物も与えた。


 人望、学力、財力――僕がいくら逆立ちしたところで、何遍生まれ変わったところで敵うものなど何一つない完全無欠の野村くんの瞳に見つめられ、一人制服の下で勃起をしていていたことは誰にも言うまい。


「十万だけど、今日のところは仕方ないから勘弁してあげるよ。その代わり一週間後までによろしくね」


 用意できなかった場合は――なんて野暮なことを野村くんは口にしない。必ず訪れる災いを宣告するなんて愚の骨頂だから。

 端的に事実と目的だけを告げる。それだけで奴隷の手綱は十分に握れると知っている。

 被支配者自身に降りかかる不幸を想像させる余地を、余白を、たっぷり残しておいて苦しむ様を堪能すると、再び興味を失ってしまったかのようにスマホを弄び始めて離れてしまった。


 相手は誰なのだろう――。


 わずかな嫉妬心が首をもたげ、今は僕だけを見てほしいという浅ましい気持ちが、より一層野村くんへの想いは募らせるばかりだった。

「支配者」と「被支配者」という立場で、僕と野村くんのか細い関係性は成り立っている。


「うん……わかったよ」


 この世に生まれ落ちたであろう瞬間に、自らが『支配する側』であることを自覚した者特有の自信に満ちた声色が、未だ僕の鼓膜を揺らしていた。もしも手元に現金があれば、なんの疑問も抱くことなく言われるがままに財布ごと差し出していたに違いない。 

 僕の財布も命運も、いつからか野村くんの手に握られている。それは不良に顔を踏まれることより、よっぽど屈辱的で最高に気分が良かった。


「じゃあ俺は帰るから、あとはお前らの好きにしなよ。くれぐれも壊さないようにね」


 踵を返して公園から去っていく背中に手を伸ばすも、スクールバッグを肩にかけて颯爽と僕の太陽は姿を消してしまった。同時に光を失った心には宵闇が訪れる。


 それから単純な暴力を受け続ける最中も、頭の中は帰ってしまった野村くんのことで一杯だった。

 彼と出会ってからが僕の人生の開闢かいびゃくと言っても過言ではない。彼だけだ、こんなにも僕に幸せを与えてくれる存在は。

 視線が合うだけでこうも胸が苦しくなって、敏感な部位をつねられたようにどうしようもなく甘く震えてしまうのは。

 この感情は、はしたないものなのだろうか――未だに僕ごときでは答えが見つかりそうにはなかった。

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