第2話 例文

◯プロローグ


 朝日差し込む散らかった部屋の中。

 罵声と金切り音が鳴り響く地獄のような場所。

 その中で僕は恐怖で身を小さくし、丸くなって自分を守っていた。

 もうやめて、どうしてこんなことをするの。

 現実を悲観し何度も心の中で叫んだ。

 神様にお願いもした。助けて下さい、と。

 だが、音は激しさを増すばかり。

 お酒を飲んだ母親は、テーブルの上の食器を払い除け、項垂れた。


「はぁ、はぁ、本当イライラする」

「──ッ」


 ギョロリと大きく見開いた瞳が僕に向けられる。

 母はガラス製の灰皿を手に取ると、ゆらり、ゆらりと近づいて来た。

 これから何をされるか、想像するのは容易だ。身体の傷が覚えているから。


「アンタさえ産まなければ──」


 振りかざされた灰皿。朝日が反射し、まるでステンドグラスのように僕を照らした。


 死ぬ。


 まだ、単語の意味も理解できていないけど本能的に感じ取った。

 怒りに満ちた母の顔、罪悪感が心を蝕む。

 あぁ、僕は産まれてきてはいけない存在だったんだ。

 ごめんなさい、と心の中で呟き、目をギュッと噛み締めた。その時──


 ドンッという音の後に、悲鳴が聞こえる。

 痛みはない、頭を殴られたわけではなかった。

 恐る恐る目を開き前を向くと、僕を庇うようにして両手を広げる少女が一人。


「安心して、貴方は私が守るから」

 

 突如として現れた救世主。

 小さいけど、大きなその背中。

 逆光を浴び、今どんな表情をしているかは分からない。

 だけど、僕はそんな彼女を見て初恋を覚えたんだ。


◯第1章 序盤


 ケルベロス、という魔獣をご存知だろうか。

 ギリシャ神話のヘラクレス英雄譚に登場する空想上の生き物。

 三つの首を持つ犬で、凶悪残忍な性格をしていると原作では言われている。

 この学校には、そんな蔑称……いや、異名で恐れられている女の子がいた。

 俺の席から4つ右斜めの席に座っている白髪の女子。

 休憩時間、周りは談笑に花咲かせる中一人俯いて本を読んでいる。

 落ち着いた雰囲気を醸し出す彼女の名前は「犬山 紗夜」。僕の実の妹だ。

 といっても、双子だから微差なんだけど、まぁ一応俺「犬山 剣」が兄ってことになる。

「さて」

 紗夜は学校に到着するや机に座り朝礼から今に至るまで、一歩も動くことはない。

 昼休みに入り、俺はカバンから二つ袋を取り出すと紗夜の席へと向かった。

「紗夜」

「ぁ、お兄ちゃん……」

 か細い声で返事をし、こちらを向く。

 今にも割れてしまいそうな髪色と同じ白い瞳からは正気を感じ取れない。

 でも、俺が笑顔で袋を差し出すと紗夜は嬉しそうにニコリと笑った。

「ご飯、行くか?」

「……うん!」

 それは、俺にとって最も大切で尊い彼女の表情だ。


 二人で一緒に屋上へ行き、弁当を広げる。

 青とピンクのお揃いの弁当箱。

 紗夜は蓋を開けると「うわぁ」と唸った。

「美味しそう……」

「昨日の晩御飯のあまりにちょっと足しただけだぞ? いつものことだし」

「ううん、それでもお兄ちゃんが作ってくれるお弁当は、いつもすっごく美味しそうだよ」

「『そう』なだけか?」

 と問い掛けると紗夜は慌てて首を横に振った。

「ち、違うよ! 美味しいよ!」

「はは、ちょっと意地悪だったかな。わかってるって」

「もう、お兄ちゃんってば……」

 頬を膨らまし、ぷいっといじけた素振りを見せる。

 こんな表情をするようになったのもつい最近で、まだ俺にしか見せることはない。

「ほら、食べないのか、紗夜?」

「食べるよ、じゃあ一緒に……」

「あぁ、せーの」

「「いただきまーす」」

 両手を合わせ、二人で一緒にお弁当を食べる。

 側から見れば過剰なくらい仲良しに見えると思うが、俺たちにとってはようやくと手に入れた安息のひとときだ。


 ──俺たちは母親からの虐待を受けて育った。


 当時の記憶はほとんど無い。

 人間とは不思議なもので、嫌な記憶は自己防衛のため忘れてしまうらしい。

 だから、自分を痛めつけた母親の記憶も、幼い頃紗夜と過ごした思い出もほとんど無い。唯一あるのは、あの日の事だけ。

 でも、覚えていなくても心の傷は今もはっきりと残っている。

「──でさ〜この間──」

「ッ!?」

 下の階で談笑する女生徒の声を聞きビクッと肩を跳ねらせる紗夜。

 小動物のように周囲をキョロキョロと確認した後、再びお弁当に箸をつけた。

「卵焼き、甘くて、美味しい……!」

 目を輝かせながらモグモグと口を動かす紗夜。

 そう、彼女は過去のトラウマのせいで他人に対し非常に警戒心が強くなっている。

 加えて「奇病」を患っていることから周りから距離を置かれてしまった。

 本来ならこんなにも可愛らしい等身大の女の子なのに。

「ん、どうしたのお兄ちゃん? 怖い顔して……」

「あ、あぁ、なんでもないよ」

「ふふ、変なお兄ちゃん」

「……」

 俺は妹のトラウマを消し、普通の女の子になって欲しいと願っている。

 同年代の友達を作り、青春を謳歌できるようになってほしいと。

 それこそが、兄としての務めだと思うから。


◯第1章 終盤


 まずい、と心の中で呟く前に既に足は動き出していた。

 金髪の男に声を掛けられ、身を強ばらせる紗夜。

 どうしてまだ家に帰ってないんだ、また大変なことになるぞ。

 そうなる前に止めないと。

「紗夜、無事か!!」

「──っ、お兄ちゃん……!?」

 二人の間に割って入り、紗夜を庇うようにして金髪男と向かい合った。

 見るからに、というか漫画に出てくるようなザ・ヤンキースタイルの男は「ムッ」と口元を歪め言う。

「邪魔をするな、今は俺と彼女が話している」

「妹に何か用ですか?」

「お兄ちゃん……この人、急に変なこと言ってきて……」

「変なこと?」

 怯えている、というよりも、困惑しているのか。この男、一体何を紗夜に要求したというんだ。

「よく分からないけど、妹が困ってます。やめて下さい」

「やめるつもりはない、俺は俺の夢を叶える為に全力だからな!」

「……夢? 貴方の夢に妹は関係ないでしょ」

「あるねあるね大アリだ。なんたって俺の夢はオチンポ奴隷を作る事だからな!」

「おちんぽ奴隷!?」

 あまりに聞きなれない言葉に、思わず紗夜の方を向きアイコンタクトを取ると彼女も首を横に振るった。

「えっと、つまり、どういう、こと?」

「はぁ、お前オチンポ奴隷も知らないのか? いいか、オチンポ奴隷ってのはなぁ──」

 金髪男は両手を広げ、親切丁寧に解説してくれた。

 まるで少年のように目を輝かせながら、夢を抱いた経緯、そしてどれだけその夢に紗夜が必要か、を語る。

 少年よ大志を抱けとは言うが、クラーク博士もまさかこんな大志を少年が抱くとは思ってもみなかっただろうに。

「──ということだ。わかったか?」

「なるほど、分からん」

「なんでだよ! 俺にとって紗夜ちゃん? は必要なんだ。だから、俺のオチンポ奴隷になってくれとお願いしてるなんだよ!」

「……完全に変質者だ……紗夜、帰ろう」

「う、うんっ」

 これ以上、変態を相手にしている時間はない。

 妹にとっても彼と一緒にいると悪影響だ。

 俺は目の前の男を無視し、紗夜の手を握るとそのまま帰ろうとした。

 これ以上話をしていると、更にややこしいことになるから。

 だが、男は俺の腕を掴み止める。

「待てよ、話はまだ終わっちゃいねーだろ」

「これ以上妹に関わらないで下さい、そんな下らない夢に付き合ってられませんから」

「ちょっと待てよ? 俺の夢が、下らねぇだと?」

 ギュッと掴んだ腕に力がこもる。

 男は俺の身体を引き寄せると、反対の腕を大きく振りかぶり叫んだ。

「人の夢を下らねぇとか、言うんじゃねぇよ!!!」

 主人公のようなセリフを吐き、拳を握りしめると俺の顔面目掛けて腕を振り下ろす。

 これがもっとまともな夢だったら、どれだけカッコいいだろうか。

 眼前に迫る拳を見つつ、俺は楽観的に考えていた。

 いや、楽観的とはちょっと違うか。

 終わった、と。諦めと、男に対する『憐み』から冷静になったのだ。

「──なに!?」

 渾身の左ストレートは、パンっと音を鳴らし受け止められる。

 この手は俺の手じゃない、紗夜の手だった。

「ウチを前にして兄貴に手を出そうなんて、とんだ馬鹿もいたもんだ」

 いつもとは違う紗夜の威圧的な口調。

 グッと空気が重くなったのを感じた。

 それもそのはず、だった彼女はもう『紗夜』じゃないのだから。

「……誰だ、お前?」

「私か? 私は──」

 真っ白な髪の毛が、根本から変色。

 瞳がキラリと輝いたかと思うと、まるで地獄の業火の如く、髪と一緒に赤く染まっていった。

 自信のなさそうな「へ」の字口も、逆の形になり不敵な笑みを浮かべながら答える。

「沙耶、犬山 沙耶だ。覚えておきな、チャラ男」

「ぐッ……なんだ、この力!?」

 掴んだ拳を掴み、グッと力を込めると男は苦しそうに膝を折る。

 力の差が圧倒的にないとできないことだ。

 この姿が紗夜が患っている病気『人格現出症』により発現する別人観、地獄の番犬ケルベロスの所以、沙耶。

 男を跪かせたまま「下がってろ」と俺に言うと、腕を前に出す。

「は、離せッ!」

「離せ? 振りほどいてみろよ、馬鹿な夢を語る癖に女を組み敷く力もないのか?」

「このっ、舐めるなッ!!」

「おっと」

 腕を横に振り拘束から脱出すると、後ろに飛ぶ。

 はぁはぁと荒い息と相対するように、沙耶は余裕そうに手首を振った。

「流石は男の子」

「これでも、空手教室に通ってんだ……」

「沙耶さん、もう大丈夫だから行こう!」

「何言ってんだ、こういう馬鹿は痛めつけねぇと学習しねぇ」

「ッ、馬鹿馬鹿うるせぇんだよ、この馬鹿ッ!!」

 逆上した男は、再び拳を振りかぶり襲い掛かってくる。

 強く踏み込み渾身の右ストレートを放つ男であったが、沙耶は左手で軽く払いのけ半身になると、腰に構えた右拳を男の腹部に突き刺した。

「お──ごッ!?」

 綺麗なくの字に曲がる身体。下がる頭。

 この隙を見逃すようなケルベロスではない。

「無様に寝てな、馬鹿野郎」

「がっ!?」

 鈍い音が鳴ったと思えば、既に左拳は男の頬を抉っている。

 衝撃で壁に叩きつけられ、ズルズルと縋るようにして、男の身体は地面へと沈んだ。

 白目を剥き、完全に伸びてしまっている。

 女の子の拳を二回受けただけで、だ。

 あっと言う間に起きた非日常も、最早慣れ始めていた。

 だけど──

「ふん、口だけだったな」

 彼女の強さは本物、だからこそ周囲から恐れられている。

 怖い男に対しても、堂々と立ち向かうその姿。

 そして、俺の事を守る小さな背中。

「おう、兄貴、大丈夫か?」

 あの日、唯一覚えている日の光景と重なった。

 小さくて、大きな背中は、胸の鼓動を速める。


 俺は妹である紗夜の、別人格である沙耶に、恋をしていた。


「はぁ、なにボケっとしてんだよ、兄貴」

「っ、ああ……ごめん」

「たく、しっかりしてくれよな。紗夜の兄貴なんだからよ」

「……いつも悪いな」

「まぁいいさ、兄貴がヘタレなお陰でウチも出てくることができるし。ということで、後はよろしく」

「おっと、了解っ!」

 彼女はそれだけ言い残すと、紗夜の心の中へと消えていく。

 髪の色、瞳の色が赤から白へと戻ると、沙耶は紗夜になった。

 と、同時に膝がガクっと折れた。

「紗夜!」

 俺は紗夜の側に駆け寄り、身体を支える。

「ぅ、あ……痛い……」

 腕を抑え、痛がる紗夜。

 沙耶になった後、妹は肉体的に大きなダメージを受ける。

 それは、あの力の代償であった。

 別に、人格が変わったところで筋肉の量が変化しているわけじゃない。

 沙耶がやっているのは、肉体のリミッターを外し普段は脳が抑えている力を解放しているだけ。

 故に、番犬の代償は妹が受けてしまうのだ。

「大丈夫か、紗夜」

「ごめんねお兄ちゃん、いつもいつも」

 弱弱しい表情で口を歪める彼女に、俺は首を振り応えた。

「気にするな、こんな状況になったのも俺のせいだ。さっ、帰るぞ」

「うん」

 腕を肩に巻き、身体を支えながら二人で帰路につく。

 そう、全ては俺の弱さが原因だ。

 彼女、沙耶さんに守られないくらい強ければ、紗夜を苦しめずに済む。

 だけど、それだと……彼女に会えない。

 紗夜は妹として大事だ、でも沙耶さんの事は女性として好きになってしまっている。

 どちらも大事なことに変わりはないが、大事の方向性が全く違い、違う感情を抱く女性は、一人。

「……」

 矛盾した感情を整理できるほど大人ではなかった。


第二章 中盤から


 裏路地を進んだところにある円形の空間。

 5人の不良が倒れていて、その中心には彼女がいた。

 髪色を見るに、紗夜で間違いないだろう。

 明らかに事後。

「紗夜ッ!!」

 俺の声に気が付くと、ゆっくりとこちらを向く。

 その白銀の髪には、少しばかり返り血が付着していた。

「お兄ちゃん……」

「何してたんだ、心配したんだぞ!!」

「えっと、その……変な人に絡まれて、仕返しだって……」

 今まで沙耶が倒した奴らが復讐しにきたってことか。

 夜、仇がのうのうと歩いていれば、こうもなるだろう。

 女の子一人に多人数で襲い掛かるだなんて下衆な奴らだ。

「どうしてこんな遅くまで出歩いてんだ、心配したんだぞ!」

「えっと、その……」

「早く帰るぞ、理由は家で聞くから」

「……」

「……紗夜?」

 いつものように手を引き帰ろうとするが、紗夜は引っ張っても動いてくれなかった。

 やっぱり沙耶に交代したから、身体が痛いのだろうか。

 焦ってたせいで気遣いを失念していた。

「すまん、ほら」

「うん」

 背中を差し出すと、ようやく乗っかってくれた。

 やっぱり身体が痛かったのか。

「さ、帰るぞ、我が家に」

「あの、お兄ちゃん……」

「ん、周りの視線が気になるか? そうか、紗夜も年頃だもんな」

「……」

「紗夜?」

「ううん、なんでもない。ありがとう、お兄ちゃん」

 そう耳元で囁くと、彼女は俺の方に頭を乗せ眠りについてしまう。

 何を言いかけたのだろうか?

 まぁ、いい。とりあえず、紗夜が無事でよかった。

 次に目が覚めた時、ゆっくりと聞くとしよう。

 ──と、考えた俺が馬鹿だった。


「紗夜~朝だぞ、起きてるか?」

 翌日、朝食を作り終えた俺は妹の部屋の扉をノックし、名前を呼んだ。

 おかしい、いつもなら直ぐに返事が返ってくるのに。

 昨日のダメージがまだ残っているのだろうか、心配だ。

「遅刻するぞ~……ん~入るぞ、紗夜」

 もう一度名前を呼んだあと、それでも返事が帰って来ないので、扉を開き妹達の部屋へと入った。

 そこには布団を頭まで被った寝坊助の姿が。

 ただの寝坊か、全く世話の焼ける妹だ。

「ほら、いい加減起きなさ──」

 布団を捲り起こそうとした瞬間、身体が固まった。

 何故なら、ベッドの上に寝ていたのは紗夜じゃなかったのだ。

 紅い髪をシーツに広げ、薄着のパジャマを乱し肌を晒す女の子。

「さ、さ、沙耶……さん!?」

「ぅ、ううん~もう朝かぁ~ん、朝って……あ、兄貴!?!?」

 目を見開く俺と同じくらい驚いた様子を見せると、自身の服装に気が付き、ハッとした。右手が消える。

「け、ケダモノぉぉぉおお!!!」

「ふごぁッ!?」

 凄まじい衝撃を腹部に受けたと同時に、俺は二度寝をしてしまい、学校には遅刻した。


 気絶してから目を覚ましても、まだ彼女は沙耶さんだった。

 とりあえず学校に連れて来たけど、これは……失敗だった。

「ねぇ、あの髪色」

「やっぱり噂は本当だったんだ」

「怖い……」

 足と腕を組み、ドカっと椅子に座った彼女を見てクラスメイトは騒めきだした。

 だが、沙耶が睨みを効かせると一斉に静かになる。

「はぁ」

 ため息が漏れた。

 でも、連れて来るしかなかった。

 紗夜は毎日休まず登校することを目標にしていたし、無下にするわけにもいかない。一体俺はどうすれば──

「おい、兄貴」

「え!? さ、沙耶さん?」

 頭を抱えて悩んでいると、気が付けば沙耶さんは俺の前に立っていた。

「どうしたの、まだ三限目だけど……」

「こんな窮屈なところいつまでもいられるか、私は帰るぞ」

「ちょ、ちょっと!」

 慌てて手を掴むも、俺の力じゃ全く足りず振りほどかれてしまった。

 倒れる俺を無視し教室を出ていく彼女を慌てて追いかけ並走しながら説得をする。

「待ってよ沙耶さん、ちゃんと授業は受けないと」

「どうして」

「だって、沙耶さんは紗夜なんだからさ。アイツ、授業とかサボるの大っ嫌いで──」

「だったら、今は沙耶。アイツのことなんて関係ないね」

「大体、どうして沙耶さんが出て来てるの?」

「知らない。ウチらだって、自由に会話できるわけじゃないし」

「えっ、そうなんだ」

 知らなかった。てっきり心の中でいつでも会話できるとばかり。

「あぁ、今アイツは自分の部屋に閉じこもって誰の話も聞きやしねぇ。ま、ウチにとっては好都合だけどな」

「それってどういう意味?」

「こういうことさ、よっと」

「あ゛ッ!?」

 二階の窓からひょいっと飛び降りる沙耶さん。

 窓から乗り出し下を向くと、華麗に着地しこっちにVサインを返した。

 紗夜の身体で無茶をして……いや、沙耶さんの身体でもあるのか。

 まぁいい、もう止められないだろうし。

「沙耶さん、これだけ」

 ポイっと弁当の入った小袋を下に落とす。

 彼女はそれを受け取ると、不思議そうな顔で見上げた。

「なんだ、これ?」

「お昼ご飯、お腹減るでしょ」

「おッ、サンキュー! ご飯……か」

「とりあえず、家に帰っといて。なるべく早く帰るから」

「了解、んじゃあな~」

 そう言い残すと、旋風の如く去っていく。

 最初から学校に通わせるだなんて無理だったのか。

 今度、こんなことになったら学校に事情を説明して、休ませてもらおう……というか、紗夜は戻ってくるのか?

 ザワっと背筋に予感が走る。

 いやいや、悪い想像をし過ぎか、きっと妹は返ってくる。

 今日、学校が終わったらすぐに病院に連れて行こう。


 ☆☆☆


 鼻歌を歌いながら、町の中をスキップで進む。

 なるほど、自由ってのはこういうことなのか。

 肌を撫でる風、まぶしい太陽、沢山の人の騒ぎ声。

 見る物全てが新鮮で、吸い込む空気が身体を浄化していくようだ。

「兄貴は直ぐに帰れって言ってたけど、ちょっとだけならいいよな」

 心の中で紗夜に問いかけてみる。

 ん~やっぱりまだ声は返って来ない。

 でも、消えたわけじゃないようだ。

 紗夜の存在は感じるし。

「最近いろいろやってたみたいだし、疲れたのか?」

(……)

 まぁ、聞こえてない可能性もあるか。

 そもそも、ウチと紗夜が話せるようになったのもつい最近のことだし。

「んじゃ、遠慮なくエンジョイさせてもらうとするぜ!」

 カバンを探り、財布の中身を確認する。

 1000円札が1枚と、小銭が少々。これだけあれば、充分だ。

 ウチは駆け足で、ずっと行ってみたかった場所に向かう。

 まずは、コンビニだ!!!

「いらっしゃいま──うわッ!?」

「これをくれ!!」

「あ、ありがとうございます……お会計は356円です」

「よしッ!」

 商品の入ったビニール袋を握りしめ、再び駆ける。

 購入したのはポテチとコーラ。

 残り必要なのは、カンフー映画だ。

 紗夜のお金を勝手に使うのは申し訳ないけど、今まで心の裏でずー--っと我慢してたんだ。

 リビングでゴロゴロしながら、ポテチとコーラをがぶ飲みし、映画を観る!! ささやかな夢。

 いつ紗夜が戻ってくるか分からないし、早くしないと。

 だから次は、レンタルショップに行かないと。

 一番近くは、この曲がり角を曲がって直ぐのところに確か──ん?

「馬鹿野郎!! 未成年に、んなもん貸せるか! 出ていけ!」

「そんなこと言わないでくれよ店長ぉ! 俺の夢には必要なんだぁ!」

 ……この聞き覚えのある声は、まさか。

「しつけぇんだよ、しっし!」

「へぼっ!」

 店の自動ドアが開くと、コロコロと金髪の男がウチの目の前まで転がって来た。あぁ、最悪だ。

「くそぉ、あの店長、融通が利かねぇな……っ、お前!?」

「奇遇だな、九頭」

「犬山 紗夜!! じゃなくて、あれ、最初っから沙耶?」

 九頭はパンパンと膝を叩きながら立ち上がると首を傾げた。

 ええい、説明する時間ももったいない。

「まあいい、ここであったが百年目!! 今日こそ俺のオチンポ奴隷にな──ほごぉあ!?!?」

「邪魔だ、退け!」

 いつものように全力で腹をぶん殴る。

 九頭が腹を抱えて蹲ってるその隙に、飛び越えレンタルショップに入店した。

 僅かに紗夜と共有している記憶を頼りに、自分の見たかった作品を探す。

 どこだ、どこだ……。

「あった、これだ!!」

 ようやく見つけたDVD、燃えよドラゴン。

 なんかすごいカンフー映画だってことくらいの知識しかないけど、ずっと見たかったんだ。ふふん、やったぜ。


 一瞬会員カードがないかと思って焦ったが財布の中に入ってた。

「順調順調♪」

 DVDを借り、店を出たウチは一直線に家に帰ろうとした。

 気分上々、身体が自由ってのはこんなにもいいことなんだな。

 大体、どうして私があんな情けない男を守らないといけないんだ。

 アイツを守る為に生まれた人格だけどさ、紗夜がどうしてそこまで強く念じたのか未だに理解できない。

 兄だから、ってのは分かるけどさ……どうも府に落ちない。

 そうだ、わざわざ家に帰る必要なんてないじゃないか。

 紗夜がいない今、私は自由だ。

 どこか知らない場所、誰にも邪魔されないところへ──

(駄目)

「──ッ」

 反対方向に向けた足がピタっと止まった。

「……なんだよ、起きてんじゃねーか、紗夜」

 身体のコントロールを一瞬奪われる。

 別人格の時に干渉できる程、ウチ達の距離も縮まっているのか。

(お兄ちゃんから離れるのは、駄目)

「だったらどうして引きこもってんだよ」

(それは……)

「分かるぞ、お前の気持ち。この間、九頭に言われたこと気にしてんだろ」

(……)

「だったらもう、ウチに任せてればいいじゃん」

 それ以降、紗夜の声は聞こえなくなった。

 でも、身体が家から離れることはできない。

 ほんと、内気な癖に強情な奴だ。

 この間の夜だって、どうして夜まで出回ってたか素直に話せばいいのに。たく。

「あれれ~こんな真昼間から珍しいねぇ」

「あ? ──っつおっと?!」

 不意に肩を叩かれ振り向くと、眼前に拳が迫って来た。

 即座に反応し、かがんで躱した後、後ろに飛ぶ。

 はぁ、せっかくの自由時間なのに、邪魔者が多いな。

「なんだ、今日は最初っから赤いのか?」

「はぁ、全く……どいつもこいつも、ぞろぞろと」

 以前、ウチがぶっ飛ばした古いタイプの不良と、その仲間。

 数は、5人か。余裕だな。

 ウチの周りを囲んでいくと、不細工に嗤う。

「今日は逃がさねぇぞ」

「逃げたことはねぇ、やるんならさっさとかかってこいよ」

「はッ、舐めた口叩けるのも今だけだ。ついてきな」

 場所を変えるのか。

 まぁ、大勢の人の前でボロ雑巾になるのもプライドが許さないってことか。

 よし、10分で終わらせよう。復讐なんて考えれないくらい、ボコボコにしてやるさ。

 それから家に帰って、映画鑑賞を──ッ!?

「どうした、ビビってんのか?」

「舐めんな、さっさと行こうぜ」

 なんだ、今、足首に電流が走ったように感じたけど。

 気にするほどでもない、か。


第3章 中盤から


「沙耶さん、どこだ!?」

 帰宅路を逆走しながら彼女の姿を探す。

 馬鹿だった、俺の言うことなんて素直に聞くわけないのに。

 いつもの紗夜の感覚で言ってしまった。

 クソ、妹に何かあったら、俺は……俺は……

「お、お兄さん! うぃ~す」

「ッ、九頭!?」

 商店街の方からふら~っと現れた九頭は、まるで旧来の友達のように気さくに話し掛けてくる。

 こんな大変な時に面倒な……いや、待てよ。

「九頭、沙耶を見なかったか!? 白じゃなくて、赤の!」

「あぁ、沙耶ならレンタルビデオ屋で会って、ボコられたとこだけど」

「ラーメン食って来た感覚でボコられるのかお前は……って、違う。どこにいるか知らないか!?」

「どうした、慌てて」

「知らないならいい、時間の無駄だ」

「俺をボコった後、不良に絡まれてたけど」

「な!?」

「まぁでも、心配ねぇよ。雑魚5人くらい沙耶の手に掛かれば──」

「どこに向かっていった!?」

「うわ!?」

 俺は九頭の胸倉を掴み、必死に問いかける。

 その様子を見て、九頭も何かを察したように真剣な面持ちになった。

「まだ家に帰ってないのか?」

「そうなんだよ……もしかして、そいつらにやられてるんじゃ……」

「わかった、手分けして探そう」

「九頭?」

 思いもよらない言葉に呆気に取られてしまう。

「お前、沙耶の事を恨んでいるんじゃないのか?」

「アイツ、足首を庇ってるように見えた。万全じゃねーのかもしれねぇ」

 2階から飛び降りた時、平然としてたけど身体にはダメージが入ってたってことか。

 それに加え、一度九頭と戦ってる……沙耶の状態でも痛みが表に出る程蓄積されているのだろう。

「不良の溜まり場なら大体検討がつく。しらみ潰しにいくぞ」

「……弱っているところを襲うつもりじゃないだろうな?」

「襲う? はッ、もう夜だぞ。女の子を夜に襲うなんて、サイテー野朗じゃねーか」

 言われてみれば、今まで九頭が襲いかかってきたのは明るい時間、それも必ず一人。

 なるほど、馬鹿だがコイツにはコイツの道理があるってことか。

「信用して、いいんだな?」

「どの道、信用するしかないんだろ?」

「……わかった、俺は男としてお前を信用しよう、九頭」

 一時休戦といったところか。

 こうして俺と九頭は二手に別れ、沙耶の捜索へと向かった。

 頼む、間に合ってくれ──


第三章 終盤


 廃墟の扉を開けると、そこには沙耶の姿があった。

 男8人に囲まれ、腕を庇いながらも震える足でなんとか立っている。

 地面には6人の男が倒れており、どれだけの激戦がここで行われていたのか物語っていた。

「あ、兄貴!?」

 俺の存在に真っ先に気が付いた沙耶が驚いた様子でこちらを向く。

 その後に男達が息を切らしながら、俺に向かって言った。

「はぁ、はぁ、兄貴? あぁ、こいつの腰巾着か。大人しくそこで妹がボコられるのを見てな。もう直ぐ終わるからよ」

「妹を──」

「あ?」

「妹を、返せ!!!!」

「ふご!?」

 彼女の姿が視界に入った瞬間から、俺の足は駆け出していた。

 後先なんて考えちゃいない。

 がむしゃらに、一番近くにいた男の顔面を思いっきりぶん殴る。

 でも、俺の拳じゃ一撃でコイツらを倒すことはできないようだ。

「いてぇじゃねーか、このモヤシ野朗!!」

「あがッ!!」

 後頭部にキツイ仕返しをくらい意識が飛びそうになった。

 群がってくる男達、標的が俺に集中する。

「調子に乗んな! オメーみてーなモヤシが俺達に敵うわけねぇだろ!」

「兄貴のくせに、妹一人も助けれないなんて、無様だな!」

 いくつもの拳が振りかざされ、突き刺さる。

 倒され、蹴飛ばされ、立ち上がるとまた殴られる。

 鮮血が飛び散り、辺りを赤く濡らし、口の中に鉄の味が充満した。

 地面に転がりボロ雑巾のようになりながら、俺は何度でも立ち上がる。

「兄貴、もういい! 後はウチが──ッ、ぅ……」

「いい、沙耶……お前だって、限界だろう……ぐぁ!?」

「美しい兄妹ってか? 見せつけてくれるねぇ、オラッ!!」

「がッ!?」

「兄貴ッ!!」

 沙耶は俺の元に駆け寄ろうとするが、その場に転倒してしまう。

 その目の前で、遂に俺の足も動かなくなり倒れ込んだ。

 男達はいやらしく笑うと嫌味をぶつけて来る。

「クク、実際、こんな面倒な事に巻き込まれて同情するよ」

「な……に……?」

「お前だって、こんな腫れ物みてーな妹持って、本当は嫌なんだろ?」

「……」

「正直に言ってみろよ、妹のせいで痛い目にあって最悪だって。そしたら見逃してやっても──」

「……黙れッ!!」

「あ?」

 自分の足を力の限り殴る。

 もう、上半身を上げることもできやしない。

 立ってるだけでも激痛が走る。

 でも、倒れない、絶対に。

 意味がないことでも、敵わなかったとしても。

「ごめん、沙耶さん……今まで頼りっぱなしで……」

「はッ、見逃してやるって言ってんのに。コイツはの存在はお前にとって損でしかないんだぞ?」

「損得で兄妹の想いが測れると思うな!!」

 俺は妹に助けられた。何度も何度も。

 恩返しをしたいってことじゃない。

 ただ、情けなかったのだ、自分が。

「目の前で妹が酷い目にあっている、だったら兄の俺は必ず救う。紗夜でも、沙耶でも関係ない、彼女は俺の妹だ!」

「──ッ兄貴……」

「損得感情じゃない、大事だから、誰よりも大切だから、俺は……妹を守るんだ! 妹を幸せにする、それが俺の夢だから!」

「は、ははは、でも残念、現実は非常だよ。そんなかっこいい台詞吐いたところでよ!」

 男の一人が地面に転がる鉄パイプを掴み、大きく振りかぶった。

「馬鹿な夢語ってねぇで、いい加減死ねよ、馬鹿兄妹!!!」

 硬く冷たい金属が、俺の後頭部目掛けて振り下ろされる。月明かりが反射し、顔を照らした。

 あの日と同じだ。本能が死を伝えて来る。

 でも、違う。

 最後までこの身体が動く限り、視線を逸らすことなく、俺は立ち向かい続ける。

 そう決意を固めた時、後ろから声が聞こえた。

 しつこく耳に残る、変態の声が。

「いい夢じゃないか、でもライバルだな」

 パシィ! と破裂音が鳴り、目の前で鉄パイプは止まった。

 はは、なんだよ、いいとこ持って行って。

「はぁ、はぁ……遅いじゃないか」

「俺は昔っから引きが悪くてね、一番最後になっちまったよ」

「あ、誰だお前、邪魔すん──」

「人の夢を馬鹿にするじゃねぇ!!!」

「ふごぉ!?!?」

 受け止めた鉄パイプを掴み、男の体を引き寄せると同時に顔面に右ストレートが放たれた。

 吹き飛び転がる男に慌てて群がる不良達は、俺の後ろに立つ変態を見て言葉を失った。

「お、お前はまさか……九頭 誠!?」

「なんだ、俺の事知ってるのか?」

「マジかよ……誠って『ありとあらゆる性犯罪を行い、狙った女の為なら殺しも厭わない、SNSでは常に悪口を書かれてる』あの誠か!?」

「やべぇ、やべぇよ……!」

 え、こいつそんなやべー奴だったの?

「九頭、お前クズだな」

「ちげーよ、別人だ別人。まぁしかしこの様子だと都合がいいか」

 そういうと九頭は腕を組み、男達の前で堂々と宣言する。

「おい、その女は俺が狙ってる。これ以上手出しするようなら、お前ら──ただじゃおかねぇぞ!!」

「ひ、ひぃぃぃぃ!!! す、すみませんでしたぁ!!」

 九頭怒声に当てられ、蜘蛛の子散らすように逃げていく不良達。

 見た目もこんなんだし、腕っぷしもあるようだから、信憑性あるよな。

 なにわともあれ、助かった。

「沙耶、こっぴどくやられちまってぇ〜、もう大丈夫だ、ほら肩貸すぜ」

「触んな! っ、ぐ……」

「無理すんなって」

「う、ウチよりも兄貴を……っ、は──」

「おっと」

 緊張の糸が切れたのか、はたまた限界だったのか沙耶は意識を失い九頭の身体にもたれかかった。

 そして、真っ赤な髪の毛と瞳は白く染めていく。

「寝ちまったみてーだな」

「よかった……戻ってきてくれたんだな、紗夜」

「どうするよ、病院行くか?」

「いや、病院はいい」

「けど、その怪我じゃ」

「複雑なんだよ、家庭の事情」

「そうか、じゃあ家まで送ってくぜ。流石に俺も家を特定したからって押し掛けるようなストーカーじゃねぇから安心しろ」

「ストーカーよりもタチが悪いよ、でも助かる、ありがとう」

「おう」

 九頭は軽々と紗夜をお姫様抱っこする。

 人生で初めて友達っぽい会話をするのが、まさかこの男とは思ってもみなかったが、悪い気はしなかった。


 家に付き、紗夜をベッドに寝かせた後「お茶でもどうだ?」と聞いたが九頭は「お構いなく」と返し、事前の宣言通り直ぐに帰って行った。

 俺は九頭を見送った後、スヤスヤと吐息をたてる妹の顔を覗き込む。

 穏やかな表情を見て、いつもの日々が戻ってきたと安堵した。

「紗夜、戻ってきてくれてありがとう」

 白い髪に指を通し頭を撫でる。

 すると彼女は小さな声で「お兄ちゃん、大好き」と呟いたのだ。

 ドキッと胸が跳ねたのは言うまでもない。

 寝言ではあるが、妹に認められた、と同時になんだか好きな人から告白されたような気分になったのだ。

 壮絶な一日のご褒美にしては充分すぎるだろう。

「……さて、俺も少し休むか」

 こんなにも身体が痛むのは初めてだ。

 骨にヒビが入っているかもしれない。

 でも病院にいって喧嘩したことがバレれば、ここにいれなくなるかもしれない。

 俺は痛む身体を引き摺るようにしながら、寝室へと向かった。

 しかし──

「ぅッ、あ……」

 酷使した肉体は、最早精神論でなんとかなる領域にはない。

 階段を降りる途中にガクッと膝が折れ、手摺にもたれかかった。

 不眠症もあってか、意識が朦朧とする。

 だが、快眠することはできない。

 瞳を閉じれば、過去のトラウマがフラッシュバックし意識を覚醒させるのだ。

 そのお陰で、今日あれだけ殴られても気絶しなかったわけなのだが。

「流石に、横にはなって──」

 ゆっくりと立ち上がり、リビングで休もうとした瞬間、糸の切れた人形の如く身体の制御が効かなくなる。

 落ちる、と思った時には既に前傾姿勢で自分ではどうしようもない状態にあった。

 せっかく頑張ったのに、結末がこれとはあっけない物である。

 半ば、走馬灯に近い情景の中、重量に身を委ねると、俺は何者かに手を引っ張られた。

「大丈夫、剣?」

 そう優しく問い掛けてくれたのは、爽やかな紫の髪と瞳をした女性、咲弥さんだ。

 彼女は俺の体を引っ張り、胸の谷間にギュと頭を押し付け抱き締める。

「よく頑張ったね、偉いぞ」

「俺は……僕は……」

「うん、剣はいいお兄ちゃんだよ、私が補償する」

 体温が、鼓動が、心を落ち着かせる。

 鉄の鎖に縛られていた意識が、空を漂う雲のような浮遊感に満ちた。

「だから、ゆっくりお休み」

 頭を撫でられ、まるで母のように優しく肯定され、僕の瞳は自然と閉じ、久しぶりの睡眠へと誘われていくのであった。


 僕は、妹に母性を感じている。


エピローグ


 剣を自分の寝室へと運び寝かせ、その隣に私も一緒に寝た。

 こんなに身体を傷付けて、余程頑張ったのだろう。

 後ろから体を抱き締めると「母さん」と寝言を呟く。

 人一人を充分に支えるほど、まだ彼は大人ではない。

 だからこそ、私、咲弥という人格が必要不可欠なのだ。

 彼の為に最も必要な人格は私。紗夜でも沙耶でもなく、咲弥。

 

 そう──私こそが、剣に相応しい。


「ふふ、大きくなったわね」

 布団の中から背中、胸元へと腕を這い寄らせていく。

 シャツのボタンを上から一つ、二つ外し、ゆっくりと脱がせていった。

 肌と肌の距離が近づく。もっと感じたくなって、私も服を脱ぎ密着させた。

 あぁ、男の子になっている。

 いくら貧弱と言われようと、硬い筋肉は女の子のそれとは違う。

「──ッ、あ」

 彼の身体がピクっと小さく跳ねた。

 脇から胸元へ指先を滑らせ撫でると寝息が徐々に熱くなってくる。

 滲み出た汗が、私の肌に浸透し、体液が混ざり合う。

 二つが一つになっていく感覚。

 もっと彼を可愛がってあげたい、私だけの彼にしたい。

「剣、愛してる」

 片方の手を頬に当て、顔をこちらに向けた。

 そして、その未熟な唇に唇を重ね合わせようとする──その時。

「……」

 動かない。あぁ、アイツか。

「邪魔しないで、沙耶」

(それ以上はダメだろ、咲弥)

「ここまで干渉できるようになったの、凄いわね」

(今、紗夜の身体はボロボロだ。ゆっくり休ませてやれ)

「本当に、それだけかしら?」

(……どういう意味?)

「貴女、剣に惹かれてるでしょ。女として」

(──ッ!? そ、そんなわけないでしょ!)

 本当に、私達の中で分かりやすくて、素直な子。

「分かるわよ、貴女のせいで私、一線越えたくなっちゃったから」

(……抜け駆けは許さない)

「怖い怖い、でもよく考えてよ。私と貴女、それと紗夜……一体誰が一番、剣にとって必要だと思う?」

(損得じゃないって兄貴は言った)

「けど、それは兄妹として。恋人、母親とは違うんじゃない?」

(……)

「まぁ、今日のところは役割を果たしたし眠りにつくわ。これからが楽しみね、二人とも」

 

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