副料理長の帰還

 そしてサーシャは、元々住んでいた長屋の一角に出戻ることになった。

 ただ、抱えて持ってきた調理器具は、そのまま置いていくことにした。どの道、荷物にしかならない。

 刃の擦り減ったシェフナイフも、キルシュへの餞別とした。

 久しぶりの一人部屋は、やけに広く感じた。水火精式の浴槽がない秋の夜が、こんなにも寒々しいことを、サーシャはすっかり忘れていた。

 それでも朝は来る。

 久しぶりに歩く大理石の床は、背の高いステンドグラスから差し込む朝日を受けて、眩く輝いていた。

 厨房に近づくと、賑やかな喧騒が聴こえた。朝は仕込みの時間だ。幾翅もの精霊へ矢継ぎ早に指示を飛ばす精霊使の圧縮言語、リズミカルな包丁の音色、飛び交う罵声と冗句。


「た、たのもー……」


 どういうテンションで割って入ればいいのか分からなくなったサーシャは、小声でそう言って厨房に入った。懐かしい、油の匂いが鼻先を掠める。

 厨房で忙しなく動いていた全員の視線が、一斉にサーシャのほうを向いた。ごく一部の、鍋を振るう者を除いて、誰も彼もがその手を止めている。

 背中を冷や汗が伝う。なにか言うべきだろうか? でも、何を?

 マルシュが包丁をまな板に置き、エプロンで手を拭いながら歩み出た。


「今日はライギョの良いやつが入ってますよ、サーシャ副料理長」


 その一言を皮切りに、皆がサーシャを囲んだ。


「金毛豚のロースが手に入りました。熟成も頃合いです。ローストが最高ですが、蒸すのも悪くない」

 

「野菜も一番良いのを契約先から仕入れてます」


「葡萄酒も蒸留酒もばっちりです!」


「あ……」


 言葉が詰まる。戻ってきた、という気がした。光の当たる場所へ。サーシャ・レイクサイドの居場所へ。


「さあ、今日の献立を決めてください。副料理長」


 サントスが進み出て、サーシャに告げた。


「はい、では───」


 まるで自分のものではないみたいに、滑らかに口が動く。サーシャは総料理長の代理として、次々と指示を出していった。

 

  †


 賄いの時間になると、必然、話題の中心はサーシャになった。今までどこで何をしていたのか。中には、わざわざ「山海楼」や「天球の廻転亭」まで様子見に足を運んだ者もいた。


「屋台でクレープとかスープを売ってました」


 そういうと、さざ波のような笑いが沸き起こった。屋台だとよ。宮廷の副料理長が。

 サーシャも笑った。きっと以前の私なら、同じように小馬鹿にしたのだろう。だから、別に構わない。


「悪くなかったですよ、屋台も」


 それが本音であることは、自分だけが知っていれば良いことだった。


 その日の仕事を終え、火精たちが眠りについたことを確認して厨房を出たところで、メイヤと遭遇した。偶然ではなく、彼女はサーシャを待ち受けていたようだった。どこからか復帰の情報を手に入れたのだろう。宮中のことなら、彼女他の誰よりも早耳だ。


「ちょっと来て」


 メイヤはそれ以上何も言わず、サーシャを人気のない食料倉庫へと連れ込んだ。


「あの、何ですか? 愛の告白はちょっと、メイヤのことは友達としか思えないっていうか」


「何で戻ってきたのよ」


 メイヤの手のひらが、土壁を叩いた。壁際に押しつけられながら、サーシャは口を尖らせた。何を怒ってるんだ、こいつは。


「ベックさんに頼まれたんですよ。あの人、今療養中じゃないですか」


「総料理長が?」


 メイヤは自身と壁とでサーシャを挟み込んだまま、黒曜の目を伏せて何事かを考え始めた。何かコロンを使っているのか、白い襟首と肌の間から、柑橘系の爽やかな匂いがする。


「……そういうことか」


 宮中の密偵は何かを納得したように頷き、ようやく手を下ろした。サーシャは詰めていた息を吐き出して、腰の辺りを手で払う。


「あの、もう帰っていいですか?」


「駄目。もう少し付き合って」


 そしてメイヤは言った。


「ミリアガルデ殿下に会ってもらうわ。そのほうが話が早い」


  †


 宮廷は不夜城だ。

 宮中の廊下には無数のランタンが掲げられていて、それらは全て、光精たちの住処になっている。日の入りから日の出まで、彼らは燦々と夜を照らし続ける。

 掃除夫やハウスメイドたちが行き交う廊下を、サーシャとメイヤは並んで歩いた。ミリアガルデ第三王女の寝室は、コの字形をした宮廷の端にある。


「話って、なんのことです?」


「王弟派の動きについて」


「私に関係あります? それ」


「私も無いと思ってた。でも、違うかもしれない」


 それ以上は、メイヤは何も言わなかった。視線が、廊下や窓を掃除する男女を探っている。彼女のような、メイドや雑役に紛れた密偵が耳をそば立てていないとは限らない。

 やがて彼女は、一つの扉の前で立ち止まった。扉の脇には細剣を下げた女性が直立している。忠誠厚い貴族の子女から選ばれた近衛騎士だ。騎士といっても、サーシャたちとさして年は変わらない。

 彼女は、尖った視線と声をメイヤに向けた。けれど、


「王弟派の件で」


 その一言で、少女騎士の顔色が変わった。

 彼女はその場で待つように告げて、部屋の中へ入っていく。ややあって出てきた彼女は、二人に部屋の中へ入るよう促した。

 

 ミリアガルデ第三王女は、薄い夜着だけを羽織ったしどけない姿で、巨大なベッドに座り込んでいた。刺繍の施された衣服から、剥き出しの肩が覗く。


「お久しぶりね、サーシャ副料理長」


「ご機嫌うるわしゅう、ミリアガルデ殿下」


「もう、他人行儀なんだから。人目がないときは堅苦しくしないでよ。ミリアでいいってば」


 ミリアガルデ第三王女は御歳十五歳、サーシャよりも年下だ。ぷくぷくと膨れる頬は、いかにもまだあどけない。

 彼女が「山海楼」に勤めていたサーシャの料理を気に入り、宮廷にスカウトしたのは十三歳のときだ。それからずっと、親交が続いている。


「じゃあミリア。今日の晩餐はいかがでしたか? ポークチョップと茸のリゾットがいい出来でしたけど」


「美味しかった! いつも美味しいけれど、昨日のは格別。貴女が戻ってきてくれたからよ、サーシャ」


 実を言うと、今日は第三王女の皿だけ味付けを変えるよう指示を出している。サーシャなりの「復帰のお知らせ」だ。きちんと受け取ってもらえたようで何より。


「それで、メイヤ? 何か話があるのでしょう?」


「はい。ベック総料理長の件で」


 ベック? サーシャは内心で首を傾げた。どうして王弟派の話で総料理長の名前が出てくるのだろう。


「総料理長はサーシャに代理の料理長を頼んだそうです。そうなるとやはり」


「身内を疑っている?」


「おそらくは。ですが確証が無いから念のため、という感じですかね」


「なるほど」


 何の話だ。ミリアガルデが、小さな顎に指を当てた。


「サーシャ。ベックから何か聞いてない?」


「いや、特には。強いて言えば、今は他の奴には任せられないとか何とか……」


「それ。そういうことね。何しろサーシャはあの時、宮廷に居なかったもの。確かに貴女が一番信用できる」


「はあ。え、いやこれ何の話です?」


 混乱するサーシャに、メイヤが補足した。


「ベック総料理長の怪我。本人は『階段で転んだ』って言っているけど、どうも突き落とされたらしいの」


「……えっ?」


 そんなこと、ベックは一言も口にしなかった。けれどそれが事実なら───ベックは、自分を陥れた相手をかばっていることになる。

 メイヤは咳払いをして、「ここからが本題」と告げた。


「ベックの事故と王弟派の不穏な動き。そしてサーシャに刻まれた『料理人殺し』の烙印。これらは全て、同じ線で繋がっていると考えます」

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