二人のレシピ

 サーシャ・レイクサイドは転生者だ。

 かつては日本という国の、神奈川県川崎市幸区と呼ばれる地域で、小さなフランス料理店の副料理長を勤めていた。

 副料理長とは言っても、総料理長は父親だ。つまり総料理長と副料理長だけの、こじんまりとした店だった。

 「彼女」の父は名のあるレストランで修行を積んだ後、念願だった自分の店を構えた。その頃「彼女」はまだ中学生だったけれど、日の光を浴びてキラキラと輝く新築のレストランと、下ろし立てのシェフコートを纏った父の晴れ姿は、「彼女」の進路を決定づける程度には輝かしかった。


 「彼女」は普通科の高校には進学せず、調理師科のある高校に進学した。専門高校時代から、「彼女」には明らかな天稟があった。器用な指先。人一倍鋭敏な舌と鼻。ある種の美的センス。そして、それらを下支えする料理への飽くなき探究心。

 学校に通う傍ら、父の店を手伝うようになった。料理を作って客へ出すことに、実は調理師免許は必要ではない。「彼女」は、在学中から、れっきとした副料理長だった。


「三日後、ミシュランの調査員が来るそうだ」


 そう告げる父の顔は、「彼女」が見たことも無いくらいに強張っていた。

 WEBサイトやSNS上で誰でもレビューや口コミを書き込める世界において、日本ミシュランタイヤ社が発刊しているガイドブックに、どの程度の価値があるかは分からない。

 ただ、「彼女」はこれをチャンスだと捉えた。

 ミシュランの調査員は、優れた飲食店に星を与える。一つ星でも名店と呼ばれるが、三ツ星となれば日本中でも十数店にしか与えられない。定められた基準を完璧に満たす店舗のみが、その名誉に与ることが出来る。


 三ツ星とは言わないまでも、一つでも星を獲得することができれば!

 父の店は、訪れた客からの評判は上々だった反面、繁盛しているとは言い難かった。それは立地の問題だったかもしれないし、時流の変遷によるものだったのかもしれない。「彼女」はSNS等で絶えず店を宣伝していたが、これといった成果は無かった。

 だからこそ、星を手に入れる必要があった。父の、そしていずれ跡を継ぐ自分自身のために。


「メニュー、変えようよ」


 後になって考えてみれば、「彼女」の提案にどれほどの意味があったのかは分からない。

 調査員が来るという知人からのリークを真に受けて、特別な料理を出す。それで本当に、ミシュランの星を得ることができたのだろうか? 調査は多角的に行われるものだし、調査員の訪問が一度きりとは限らない。リークが事実かどうかさえ、わからないのだ。

 それでも、そんな当たり前のことに思い至らないくらい当時の「彼女」は必至だったし、藁にも縋る気持ちだった。

 だから、父の答えには、まるで裏切られたような気持ちがした。


「それは出来ないよ。お客さんは、調査員だけじゃないからね。ウチの常連は、いつものウチの料理を食べに来ているんだから」


 「彼女」は反論した。ミシュランだよ。星を取るためなんだ。父さんだって料理人なんだから、星が欲しいんじゃないの。

 父は、ひどく悲しい顔をした。


「お前はどこを向いて、何のために料理を作ってるんだ? お客の顔か? それとも、自分の自尊心か?」


 その夜、おそらく「彼女」が生まれてから最大の、そして本気の親子喧嘩をした。売り言葉と買い言葉が飛び交い、最終的に父が叫んだ。


「黙ってろ! ここは俺の店だ。子供がでしゃばるな!」


 結局、父はいつもどおりの料理を出した。その日、本当に調査員が訪れていたのかは分からない。

 確かなことはふたつだ。

 翌年のミシュランガイドに、父の店は載らなかった。

 そして、その後国際的に流行したある病の影響を受けてレストランの売上は低迷、父は店を畳み、自殺した。

 娘を───「彼女」を道連れにして。


 自死の直前、父は「彼女」に土下座をして謝罪した。すまなかった。お前の言うとおりだった。あのとき、あの日、メニューを変えていれば。

 何もかもが空しい仮定だ。ミシュランの調査員が訪れていたことも、メニューを変えていれば星が取れたということも、星が取れていればこんな事態に陥らなかったということも。

 きっと父はもう正気ではなかったのだ。

 ただ、冷たく研ぎ澄まされたシェフナイフを手に近づく父を見ながら、「彼女」は、あの日の父の選択は、本当に間違っていたのだろうかと考えていた。


  †


 それがサーシャ・レイクサイドのオリジンだ。

 そういう話を、サーシャは、キルシュに語った。今まで誰にも話したことのない、自らの「前世」を。

 キルシュは、誠実に全てを聞き終えた後、静かに言った。


「今のサーシャさんは、どう思うんですか?」


 それは、前世がどうとか、異世界がどうとか、そういう当たり前の疑問をすべてすっ飛ばした質問だった。


「……分かりません」


 冷たい厨房の床に座り込む。尻から冷気が伝わり、はらわたまでもを冷やしていくようだった。


「結果が全てです。父は失敗して店を潰しました。なら、間違っていたんじゃないですか」


「でも、そうは思っていない」


「……そんなことは」


 キルシュはしゃがみ込み、サーシャの隣に座り込んだ。肩同士が触れて、じんわりとした熱が伝わる。


「その割には、さっきの人の言葉、効いてるみたいですけど」


「……うっせぇですね」


 キルシュの手が伸びて、サーシャの手の甲を包んだ。凍えた指先が、熱で溶けていく。


「カブナ、やっぱり、焼いたらアリだと思うんです。どう思いますか?」


「……油多めで、揚げ焼きにしましょう。小麦粉も軽く叩いて。煮込まず、最後に添える感じで」


「はい」


 後の返事を最後に、沈黙の帷が降りた。どちらも立ちあがろうとせず、雨の日の子猫みたいに体温を交換し合うだけの時間が過ぎていく。

 やがてキルシュの頭が、こてんとサーシャの肩に載った。


「帰っちゃうんですね」


 それは質問ではなく、寂寞を込めた断定だった。

 正直なところ、サーシャは迷っていた。副料理長として扱ってくれたベックには恩があり、宮廷厨房には未練がある。誰だって、思う存分、満たされた環境で自分の力を奮いたいと、そう思うものじゃないか?

 でも。

 恩義も未練も、宮廷だけにあるものじゃない。そして何より、サーシャ・レイクサイドに足りないものを、キルシュ・ローウッドは持っている気がする。

 だからサーシャは首を横に振った。


「……帰りませんよ。収穫祭、どうすんですか」


「あたしが何とかします」


「お馬鹿。収穫祭で終わりじゃないんですよ。その後お店開いて、メニュー増やして、人も雇うんです。キルシュなんか、どうせまた騙されますよ」


「大丈夫ですってば!……た、たぶん」


「シチューとスープとクレープしか作れないくせに」


「他にも、サーシャが沢山教えてくれたじゃないですか。野菜の目利きとか、美味しい朝ごはんの作り方とか」


「まだまだです、何もかも。だから、私がついてないと、」


「大丈夫です」


 キルシュの亜麻色の髪が、サーシャの頬に擦り付けられた。つむじの辺りから、熟した果物のような甘い匂いがする。


「……行ってください。サーシャさんの、いるべき場所へ」


 握った手のひらに力が篭る。キルシュは静かに、けれど万力のような力を込めて宣言した。

 サーシャがどんな店で働いていたかは知らないけれど、たったひとつだけ確かな事がある。

 彼女は、こんな場末の食堂にいるべき人じゃない。もっと相応しい厨房があるはずだ。

 キルシュは引き攣りそうな頬に、無理やり笑顔を浮かべた。


「星は、私が集めてみせますから」

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