誰が為の料理
翌日から、サーシャは宣言通りにレシピへの口出しを止めた。ただただ、サーシャの指示に機械的に従う。まるで外付けの手足のように。
レシピへの意見を聞いても、口を閉ざすばかりで何も言わない。その有様で寝食を共にしているのだから、気まずいなんてものではなかった。
「あの、キルシュさん、そこのお酢」
無言で差し出された小瓶を受け取り、生野菜に回しかける。お礼を言おうとすると、ふいと横を向かれた。タイミングを見失って、何も言えなくなる。万事この調子だ。
それでも収穫祭に向けて準備は進めていた。難航していたシチューのレシピも概ね完成して、試作品の出来も上々だった。険悪な空気のなかでも、キルシュは目を見張る速度で成長していた。
予想外の来客が訪れたのは、いよいよ収穫祭を目前に控えた日の午後だった。
「あの、困ります。今、お店はやってなくて」
サーシャが厨房で木椀を洗っていると、ドアベルが鳴った。応対に出掛けたキルシュが困惑している様子が、厨房まで伝わってくる。
厨房から覗き込んで、サーシャは思わず声を上げた。
「───総料理長!」
キルシュの背中越しに、宮廷厨房の長、ベック総料理長が立っていた。半身を御者らしき男に預け、片足を木の棒と包帯で固めた姿で。
ベックはぎこちなく片手を上げた。
「よう」
「どうしたんですか、その足」
「階段から落ちた。全治二ヶ月だそうだ」
サーシャはベックの顔をしげしげと見詰めた。すこし痩せこけただろうか? 頬骨の陰影が濃くなったように思える。よく見れば、左手がずっと脇腹を押さえている。負傷は、足だけではないようだった。
「……どうしてここが?」
「メイヤから聞いたよ。ここの店主と組んで、屋台をやってるらしいな」
「ええ、まあ」
「収穫祭の星集めには参加するんだろう。レシピは決まったか? さっきから火にかけている、ブラウンシチューかな」
ベックが大きな鼻を動かし、厨房のほうを見遣った。
「ああ、いい匂いだ」
「私のレシピですから。それより、」
サーシャはベックの左足を見下ろした。足首から膝のあたりまでを、包帯がきつく締め付けている。
「全治二ヶ月? 神饌会はどうするんです?」
神饌会は、収穫祭の直前に行われる王族の昼食会だ。王族がその年に収穫された食材を用いた料理を食べることで、空の女神に感謝を伝えるという儀式。
宮廷厨房にとっては、年に一度のビッグイベントだ。
「それだ。その話をしに来た。見てのとおり、俺はしばらく厨房に立てない。今は痛み止めで誤魔化してるが、普段はベッドの上だ。だから───」
ベックは膝に手を当て、唐突に頭を下げた。白いものが混じった短い髪のつむじが見える。
サーシャはぎょっとして、意味もなく周囲を見渡した。厨房の影から、キルシュがこちらの様子を伺っている。
「戻ってきてくれ」
息を呑む。
絶句したサーシャをよそに、ベックは言葉を重ねた。
「戻ってきて欲しい。せめて、神饌会まででも」
「それは。だって、辺境伯の件で」
「もうほとぼりは冷めた。今なら、ああだこうだ言ってくる奴はいない」
「私、料理作れませんけど!」
「俺の仕事を知ってるな? 献立の組み立て、料理人への指示、味の最終チェック。それが出来ればいい。自分で鍋を振る必要はない。それは他の奴がやる」
「そ、───そうです! ボアジェがいるじゃないですか! 彼なら充分やれます!」
「駄目だ」
「え?」
「とにかく駄目なんだ。今に限っては、他の奴に任せられない。それに───サーシャ・レイクサイドなら、皆が認める。今もってなお、あの厨房の副料理長はお前だからな」
鳶色の目が、サーシャをひたと見詰めた。
低いベックの声が、心臓の柔らかい場所まで届く。誰もが認める、この国で最高の料理人の一人。その言葉に、サーシャは確かな高揚を感じていた。
あの場所に戻れる。すべての料理人が憧れてやまない、至高の厨房。最高の環境と食材、そしてスタッフが集う宮廷厨房に。
それは、ずっと望んでいたことだ。
でも。
内心の迷いを見透かしたかのように、かつての上司は優しく告げた。
「返事は今でなくていい。番兵や厨房の連中には伝えてあるから、受けてくれるならいつでも戻ってこい」
「……はい」
そのとき、間の抜けた音が響いた。
ベックが、おどけるように自らの腹に手を当てる。
「こりゃすまん、どうも治療院で出るメシは食った気にならなくてな……」
ベックの視線が、シチューの香りを追って厨房へ向いた。
「そうだ。もしよければ、今作ってるブラウンシチューを一杯貰えないか。金は払うから」
サーシャが厨房に入ると、すでに木椀にシチューが盛られていた。聞き耳を立てていたらしい。サーシャは無言で椀をお盆に載せる。
「前の職場の方、ですよね」
「……ええ、そうです」
「戻るんですか?」
「っ、」
振り返る。サーシャを見つめるキルシュの翠の目からは、彼女が抱えた感情を読み取れない。
戻る? そんなの───決まってる。これ以上、ここにいて、何が学べるっていうんだ。
「ええ、ええ。それもいいかもしれませんね。レシピが完成すれば、私はお払い箱でしょうし」
「そんなつもりじゃ、」
縋り付くような言葉を振り切って、食堂へと向かう。木椀をベックの前に置いて、乱暴に椅子を引いた。
「喧嘩か?」
「何でもないです。さあどうぞ。カリン羊の内臓を煮込んだブラウンシチューです」
「……頂こう」
ベックが慎重にシチューを掬って、口に入れた。
ベック・グレッグ・サウスウインドは、「山海楼」のフランベル料理長や「天上美食苑」のシィ・アイラン厨房長と並ぶ、この国で最高の料理人だ。
サーシャにとっては、三番目の師でもある。
息を詰めて、その言葉を待つ。
「……美味い」
すとん、とサーシャの肩から力が抜けた。喜びよりも、安堵が染み出してくる。
「フォンの味がいい。モツの仕事もきちんとしている。野菜も旬の良いものを使っているな。ただ───」
「ただ?」
「俺なら、ここにカブナを入れる」
「…………は?」
絶句した。カブナ? よりにもよって?
「な───なんで、てすか? ブラウンシチューにカブナって」
「甘みが出てコクと食べ応えが増すし、個性も際立つ」
「味が崩れるじゃないですか⁉︎」
「そうだな。美しい調和は失われ、完璧な一皿ではなくなるかもしれない」
「じゃあ、」
「だが、そもそも完璧な料理なんて存在しないんだ。料理に正解は無い。常に正しいレシピなんてものも」
ベックはゆるりと店内を見渡した。宮廷とは食堂とはまるで違う、日々の生活に根差した店の作りを。それから、窓の外で忙しなく通りを歩く人々の姿を。
「食欲がない客には、酸味や辛味を。疲れている客には甘いものを。胃腸を痛めた老人には薄く、汗をかいてきた若者には濃く。それが料理人の塩梅だ。収穫祭は、日々の労働の疲れを癒すためのお祭りだ。他の街からやってくる旅人も多い。彼らに必要なのは、宮廷で出されるような完璧な味付けか? それとも、滋養に溢れた一皿か?」
サーシャは雷を浴びたように固まった。ベックはその様子を見て、ふっと小さく息を吐いた。
「すまん、差し出がましい真似だった。もう帰るとしよう。これは代金だ。美味かったのは本当だぞ」
彼は椀を空にすると、一枚の銀貨を置き、隅の椅子に腰かけていた御者に声を掛けた。駆け寄ってきた男に半ば身を預けるようにして、ようやく椅子から立ち上がる。
その瞬間、表情が歪んだ。傷が痛むのだろう。総料理長は、怪我を押してサーシャを説得に来たのだ。自らの厨房を守るために。
幾分小さく見える背中を見送った後も、サーシャはしばらくの間、椅子から立ち上がれなかった。
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