星のない夜
街の至る場所から、収穫祭の足音が聞こえ始めていた。
それは例えば、市場に乗り付ける荷車の数や、行き交う人の口の端に上る話題であったり、より高く澄んでいく空の青さであったりした。
一方で、サーシャたちの準備は順調とは言い難かった。キルシュの技量は向上していたし、月並みな「カリン羊の内臓の煮込みシチュー」なら作れるようになっていた。ただ、それでは駄目なのだ。輝く星を集めるには、月並みでは足りない。
日を追うごとに短くなる昼に反比例するように、焦りがサーシャの心に忍び込んできていた。
キルシュがサーシャの前に木椀を置いたのは、そういう肌寒さを覚える朝だった。
「あの、これは?」
「今朝、作ってみたんです。食べてみて、もらえますか?」
ひと匙口に運んで、サーシャは緊張した面持ちのキルシュを見上げた。小麦粉をバターで炒めたペーストに、骨を煮出して作ったフォンが注がれている。フォンはサーシャのレシピどおりだが、いくつかの具材が異なっていた。特に、褐色のルゥに沈んだ黄色いカブナの実が目につく。悪い意味で。
「……46点。小麦粉が焦げてます。ルクルクをもう少し入れましょう。塩も少し。あと、このカブナはなんですか? 変な甘さが出てバランスを崩してますけど」
「……そ、そうですか」
露骨なくらいに、キルシュの肩が落ちた。ぎょっとする。さすがに言い過ぎたか、とサーシャは少し慌てた。
「まあ、次は私が一緒に作りますよ。テールスープを分けておいてください」
はい。キルシュは頷いたものの、いつもの元気は見て取れなかった。並んで屋台でスープを売る間も、どこか彼女は上の空のままだった。寸動鍋いっぱいのスープからテール肉を探しながら、もっと別の何かを探そうとしているようだった。
†
「あ、いた。お風呂、頂きましたよ」
風精が生む温風に髪を揺らしながら、サーシャは厨房を覗き込んだ。火水精式の浴槽を使うのは、いつもサーシャが先だ。キルシュが「お客さんなので」と頑なに主張したためだ。サーシャとしては客人扱いは不本意なのだけれど。
キルシュは厨房で、包丁を握っていた。まな板の上には、丸く実ったカブナの実が転がっている。翠の瞳がサーシャに気づいて丸く見開いた。柔らかそうな身体が動いて、さりげなく調理台を背中に隠す。「しまった」という一言が、聞こえてくるようだった。
「なにしてたんですか?」
思わず、咎め立てるような声が出た。カブナは余計だ。私のレシピには、そぐわない。そう伝えたのに。
キルシュは俯き、両手でエプロンの裾を握った。
「あ、その、」
「それ、カブナですよね。私、入れないように言ったと思いますけど」
キルシュの喉が上下する。おずおずと、彼女は反論を口にした。
「でも、カブナって、滋養があって、疲労回復に効果があるじゃないですか。食べてくれた人が元気になってくれたらって、思って」
「駄目です。フォンの甘みとルクルクの酸味が大事なんです。そこにカブナは味を崩します」
「あ、軽く炒めて、最後に入れるのはどうですか? そうすれば、ルゥに味は染み出ないかも」
「料理は足し算です。余計な味を入れるのが一番駄目なんです」
「でも、」
こんな簡単なことが、どうして分からないんだろう。胸から喉へ、苛立ちが込み上げる。カッと頬に熱が宿った。けして言うつもりの無かった言葉が、口を衝く。
「黙って、私の言う通りに作っていればいいんです! 素人なんですから!」
自らの声に、過去からの記憶が重なった。
───お前は黙ってろ! ここは俺の店だ。子供が出しゃばるな。
はっとして、口を手で覆った。おそるおそる、キルシュの顔色を伺う。いつも春風みたいな彼女が、青褪めていた。怒り、失望、悔しさ。そういった負の感情が、物言わない翠の瞳から放たれている。
「あの、や、その、今のは、」
「……ごめんなさい。出過ぎたことをしました。そうですよね。実際、あたしは素人ですし」
「それは───でも、」
「いいんです。ごめんなさい。明日からは、言われたとおりに作ります。あたしだって、この店を潰したくないですから」
キルシュは、まな板の上で転がるカブナを乱暴に掴むと、氷精の眠る冷蔵庫へと放り込んだ。扉を閉める無機質な音が、静かな厨房に響き渡る。
キルシュは何も言わずに厨房を後にした。
サーシャは窓から夜空を見上げる。空の下に雲がかかっているのか、星の一つも見えない、沈むような闇夜だった。
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