レシピその2
キルシュが店の倉庫から引っ張り出してきたのは、両脇に金属製の車輪がついた火精式の竈だった。
「これ、屋台用の携帯竈……ですよね?」
「はい。お母さんが昔、言ってたんです。収穫祭の日は屋台を出してたって」
「竈しかないですけど」
「奥に庇とか骨組みもありました。ちょっと埃を被ってるので、お掃除が必要そうですけど……」
サーシャは、目を細めて倉庫の入り口を見つめた。日の光を受けて、きらきらと埃が煌めいている。ちょっと。あれが?
「……まあ、屋台を出すのはアリですね」
顎に手を当てて考えてみる。確かに、店に客が入らないなら、客のいる場所に出向くのがてっとり早い。市場の出入り口あたりに屋台を据えれば、それなりに人目を引くだろう。小銭も稼げるし、店舗の宣伝にもなる。
問題は何を売るかだ。少なくとも、今のキルシュに作れるものでなくてはいけない。
「お」
ひとつ、ピンと来た。これなら無理なく作れるし、目新しく、かつ実績がある。
サーシャは、竈の煤を払おうと悪戦苦闘中の背中に声を掛けた。
「キルシュさん、厨房へ行きましょう。料理の時間です」
鼻頭に煤をつけたキルシュが、きょとんとした顔で振り返る。
†
「目の細かい小麦粉に砂糖をふた匙。さっくり混ぜて、水を半量」
サーシャの指示に従い、キルシュが抱えたボウルに差し込んだ木べらをぐるぐるする。卵黄が割れて、濃い黄色がとろりと生地に溶け込む。
適当なところで、手を止めさせた。生地を練りこみ過ぎてはいけない。グルテンが強くなり、焼き上がりが固くなるからだ。
「これ、ガレットですか?」
「似ていますが違います。クレープですね。卵や砂糖が手に入りやすい宮廷では、こっちのが主流です」
「なるほど……宮廷?」
「ま、焼き方はガレットと同じです。ただ、一度裏返してください」
「あ、はい!」
「さて、ここからが本番。カスタードを作ります」
「カスタード!……って何ですか?」
「美味しいものです。甘くて黄色くてとろっとろですよ」
「なんと」
「この甘い生地に甘いカスタードを塗って、甘酸っぱいフルーツを載せて包みます」
ごくりとキルシュの喉が鳴った。
「そんなの許されるんですか……? 悪魔の食べ物では……?」
「もっとすげーの食べてますよ、王侯貴族は」
キルシュが目を剥く。事実だ。
サーシャの指導の元、カスタード作りが始まった。まずはガーガーの卵を片手鍋に割り入れ、砂糖と小麦粉を入れてよく混ぜる。粉っぽさが消えたくらいで温めの水を三回に分けて注ぎ、とろ火にかけてひたすら混ぜる。すると、びしゃびしゃだった卵液が徐々にとろみを帯びていく、
今回は牛乳を水で代替えしたけれど、それでも十分美味しく作れるのがカスタードクリームだ。水分が入るため保存は効かないものの、生クリームより遥かに手軽に作ることができる。
「仕上げに沸かした蒸留酒を少し入れてください。香りづけですね」
「おお……!」
そうして出来上がったカスタードを、氷精に冷やしてもらう。対価はカスタードひと匙分だ。
キルシュは冷えて固くなったそれを、生地に塗りたくり、赤と紫のベリーを載せた。くるりと巻けば、立派なクレープだ。
「わあ!」
「どうです? これなら調理も簡単ですし、客がいないときに生地を作り置くこともできます。カスタードは仕込みが必要ですが、火加減さえ間違えなければ、大量に作れますよ!」
「これ、食べていいんですか⁉」
「どうぞどうぞ。……あ、でも半分ください」
†
「サーシャさん、こんな感じですかー?」
「あー、ちょっとズレてますね。もうちょい右です! そう、そこ!」
裏通りで浅葱色の庇を取り付けていると、時折話しかけられることもあった。何の屋台を始めるの?
そういうときは、キルシュがわたわたと対応した。埃をはたきながら気づいたことだが、キルシュ・ローウッドは、外見から受ける印象ほどには、社交的な性格ではない。どちからと言えば口下手だし、緊張しいだ。サーシャを勧誘したときの積極性は、それだけ必死だったことの証左だろう。
やはり、店をやるならもう一人店員が欲しいところだ。給仕や会計を務める、ホールスタッフが。サーシャも出来ないことはないけれど、気に食わない客に飛び蹴りをかますような料理人は、可能なら厨房から出るべきではない。
皿、割るし。
そんなことを考えながら、掃除を終えた。
「キルシュさん、鼻の頭、真っ黒ですよ」
「サーシャさんこそ」
顔を見合わせ、揃って吹き出す。どちらの顔も、負けず劣らず煤と埃に塗れていた。
その日は前日の倍近い時間をかけて風呂に入り、念入りに汚れを落とした。
そして翌日、二人は朝一で即日営業許可の申請書類を飲食店ギルドへ提出し、意気揚々と屋台を曳いて市場の端に陣取った。
客は来なかった。
「何でですか⁉︎」
「な、なんででしょうねぇ……」
十枚近く重なったクレープ生地を見つめて、キルシュがしょぼんと肩を落とす。
湯気を立てていた生地の表面は、少しずつ乾き始めていた。それと反比例するように、彼女の気配は湿り気を増していく。
やがて、キルシュは小さく呟いた。
「やっぱり駄目なのかな……」
その目尻が潤んでいることに気づいて、サーシャは思わず舌打ちしそうになる。
「……泣き虫……」
「えっ」
「何でもないです。何が駄目なんですか何が」
「何もかもです。私がお店を続けるのも、この屋台も」
「へー。じゃあ辞めます?」
「……意地悪……」
「誰が意地悪ですか」
「サーシャさん」
「今のは質問じゃないですけど」
「ちょっとくらい弱音に付き合ってくれても良くないです⁉︎」
「やです。私面倒くさい女嫌いなんですよ面倒臭い男の次に」
「めんっ、あたし面倒臭くないです! ないですよね⁉︎」
「そういうこと聞いてくる時点で面倒臭い……あっ、こら、ホントに泣くのは無しでしょう⁉︎ 客来たらどうすんですか! 厨房で泣くな! ずる!」
結局、ぎりぎりのところでキルシュは涙を堪えた。肩の震えが治まるころに、彼女はぽつりと転がすように言った。
「……サーシャさんは、料理、好きですか?」
「好きです。死ぬときは厨房で、と決めています。比喩ですけど」
「あたしは、好きじゃないです」
ばつが悪くて正面の喧騒ばかりを見つめていたサーシャが、隣を見た。キルシュは翠の目を伏せて、どこか遠い場所を見つめている。
「面倒だし、失敗すると悲しくなるし、失敗したものを食べているともっと悲しくなるし、たまに成功しても食べたらすぐ無くなっちゃうし、面倒だし」
「……そうですね」
「お店を残そうと頑張ってみましたけど、やっぱり上手くいかなくて、みんな残すし、いや私が下手だから仕方ないんですけど、ほんとあたしが悪いんですけど、でも、お皿に残ったご飯を捨てるの、凄く辛くて、悲しくて」
言葉を募らせながら、再びキルシュの瞳が潤み始める。サーシャはそれを横目で見て、半歩分、彼女のほうへと近づいた。
サーシャ・レイクランドは天才だ。それは、「失敗しなかった」ということを意味しない。むしろ逆だ。唇を噛んで残飯をゴミ箱に捨てた回数は、前世も今世も数えきれない。
でも、安い同情が何になるだろう。
「───今は、私がいます」
サーシャは前を見ながら告げた。色とりどりに咲く庇や日除け傘、幟の上で、青空に二羽の白い鳥が飛んでいる。
「私のレシピに従う限り、失敗なんてあり得ません。どの皿だって完食御礼、間違い無しです」
そして、少しだけ躊躇ってから、言う。
「信じてください。私は、あなたを助ける副料理長なんですから」
とりあえず、今のところは。
口に出せない本音を飲み込んで、微笑みを形作る。キルシュの瞳に光が差し込み、きらきらと瞬いた。
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