始動
翌朝は騒がしく始まった。少なくとも、サーシャの主観では。
久々のアルコールが効いたのか、あるいは入浴効果か、慣れない寝台でもぐっすり眠れた。カーテンの隙間から差し込む朝日にとろとろと寝ぼけていると、ばたばたと忙しなく階段を昇る音がする。
コンコンと軽快にドアを打ち鳴らされて、そういえば今日から共同生活だったなと思い出した。
めちゃくちゃ寝起きだけれど、まあいいか。
「ふぁい、どうぞ」
「おはようございます。あの、朝ごはん、作ってみました。お口に合えばいいんですけど……」
新しい相棒が、指先をもじもじとすり合わせる。昨日とは色の異なるスカーフが、彼女の亜麻色の髪を鮮やかに彩っていた。
寝ぼけ眼で案内された食卓には、二つの大皿が並んでいた。一枚には薄く焼かれた薄茶色の生地が重ねられ、もう一枚には昨日の残りの鹿肉のロースト、炒り卵、緑の葉物が盛られている。
「薄焼きのガレットですね」
「素人料理で恐縮ですが……!」
「いえ、上等ですよ。謹んで頂きます」
ガレット。穀物を引いた粉に、水と塩を混ぜて焼く家庭料理だ。まだ湯気を立てているそれをぺろりとめくり、裏表を確かめる。過度な焦げ付きや裂け目のない、丁寧な焼き方だった。鹿肉を一切れ、載せて巻く。
「ふむ、ガナ粉」
「安いので……」
「悪くないですよ。栄養豊富ですし。ただ、混ぜ方はもっと雑でいいです」
「は、はい!」
二人で卓について、もっしゃもっしゃと朝食を頬張った。
思えば、誰かと朝食を共にするなんて久しぶりだ。「山海楼」で下働きしていた頃以来で、なんだか懐かしい。
食事を終えた後は、氷精への挨拶がてら、食材を改めた。肉、野菜、卵、粉物、チーズ、塩に砂糖が少し。香草の類も多少ある。
「やはり、肉類の質がいいですね。あと、卵があるのが素晴らしい」
「内臓と同じ問屋さんから仕入れてるんです。奥様が母の友達だったらしくて」
欲を言えばミルクが欲しいところだが、酪農家以外で生乳を口にできるのは王族くらいだ。
畜産物の質が高い反面、野菜は微妙。旬を外した果実や、鮮度の落ちたものが目立つ。こちらはキルシュが自分で市場を巡って購入したのだろう。
教えることは山ほどあるな、と冷蔵庫の戸を閉じる。
キルシュと相談して、今日のメニューは手早く調理できる薄切り肉のソテーのみとした。昨晩話した新メニューのひとつ。肝心のソースは、店にあるもので作れるようサーシャが調整した。
そしてキルシュはエプロンドレスを、サーシャはシェフコートを纏って、開店の時間を迎えた。
迎えたのだが。
「まー、客が来ないと新メニューも何もありませんね」
「はは……」
かき入れどきの正午をとうに過ぎてなお、来客はゼロ。我ながら、気合いを入れて着替えたシェフコートが寒々しい。
「いつもこんな感じなんですか?」
「お恥ずかしながら……」
えへへ、とキルシュが頬をかいた。可愛い。可愛いけれど、かわいこぶっている場合ではない。
どんなに美味い料理を出すレストランも、客が来ないと話にならないのだ。
「外で呼び込みでもします?」
「えっ⁉︎」
ぴしりとキルシュが固まった。
「あ、いえ、嫌なら無理にとは。私もやり方よく分かりませんし」
「い、いえ。やります。私の店ですから……!」
見ているサーシャのほうが心配になるような悲壮さで、キルシュが拳を固めた。緊張に肩を怒らせて、表に出る。なんというか、出来の悪いからくり人形のようだ。
「……い、いらっしゃいませぇ……」
サーシャがそっと入り口脇の窓を開けると、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「……美味しい、あの、お昼、ご飯が食べられますよー……」
ダメだ。サーシャのほうがキツい。共感性羞恥で死ぬ。通りがかる人も、いたたまれない物を見る視線を向けていた。
そして結局この日、ランチタイムに訪れたのは、大聖堂への道を尋ねに来た観光客一人だけだった。
†
「という訳で、作戦会議です」
「ひゃい……」
「ほらほら元気出してください」
午後は夕食へ向けた仕込みの時間だ。とはいえ、こんな状態では仕込むも何もない。再び臨時休業の木札を掲げた店内で、サーシャとキルシュは向き合っていた。
「このままじゃ駄目です。全然駄目。何しろ後100日、もとい99日しかありません。真っ当な手段ではどうにも厳しいですよ、これは」
「ですよね……」
キルシュが肩をすぼめる。
サーシャの見立てが確かなら、彼女には資質がある。知識と経験がなさ過ぎるだけだ。改善の余地は大いにあるし、そうなれば自然と客足は戻るだろう。
けれど、今回は時間の余裕がない。
「こういうときの手はひとつです。料理の品数を絞って、宣伝に力を入れる」
「えと、宣伝は解ります。でも、品数を絞ったら逆にお客さんが減りませんか?」
キルシュが首を傾げた。サーシャはかぶりを振る。
「いえ、絞るべきです。まず、今のキルシュさんに複数のレシピをマスターしてもらう余裕はありません。もちろん基礎から少しずつ教えますが、回り出した厨房は戦場ですから。この前のように、私が一々指示を出すわけにはいかないですし」
「そっか、そうですよね」
「もう一つは、看板料理を作るためです。品数を絞れば、自然とそれがこの店の看板料理になります』
「看板料理……」
「はい。繁盛店には必ず、看板料理があります。その店でないと食べられない、特別なスペシャリテ。往々にして、お客さんは店名ではなく看板料理で店を覚えるものです」
「例えば、『山海楼』の羊料理みたいな?」
「そうですね。『ミート・アイランド・パーク』のアイランドステーキ、『天球の廻転亭』の季節野菜のタルト、『天上美食苑』の海鮮八色点心。いい店には、必ず看板料理があります。どれも、それ一つで勝負できるくらいの逸品です」
「確かに」
「とは言え簡単に出来るものではないですし、キルシュさんの練習も必要です。なので当面は試作品を作りつつ、並行して店の宣伝をしながら、なおかつ運転資金を稼いでいく必要がありますね」
「確かに……えっ、すごい難しくないですか?」
難しい。しかし、そこで妥協を選ぶ余裕は無いのだ。
二人でしばらく頭を悩ませていると、やがてキルシュが、思い出したかのように手を打った。
「そうだ。アレが使えるかも!」
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