お引越し
荷物と言っても大したものは無いのだ。調理器具とシェフコート。それから私服が何点か。
調理器具は、全てキルシュに詰めてもらった。サーシャがやろうとすると、長い棒で引っ掛けて袋に落としたりする必要がある(質に入れようとしたときはそうした)。なので、大変ありがたかった。
「サーシャさんちって、包丁、何本あるんですか?」
「七本」
「ななほん」
もっとも愛用しているシェフナイフを筆頭に、果物用のペディナイフや魚用のフィレナイフもある。
もっともこれは、形に合わせてサーシャが勝手にそう呼んでいるだけだ。この世界では、「前世」ほど包丁の区分けはなされていない。
一方で、純粋な鋳造・鍛造の技術は、ともすれば「前世」以上にも思える。セラミックスやタングステンばりの金属がゴロゴロしている。
「ま、今は全部お飾りですよ。こいつのせいで」
サーシャは両手の甲を見下ろした。刻まれた刻印は、相も変わらず深い緋色を湛えている。
見ているだけで鬱々した気分になる。顔を上げてキルシュのほうを見遣ると、彼女はじっと調理台に並べた包丁を見つめていた。
「シェフナイフ───一番右のやつ以外は、貸してあげてもいいですよ」
「いいんですか⁉︎」
「私、使えませんからね」
口の端に自嘲が浮かぶ。それを見たキルシュが、おそるおそる伺うように言った。
「刻印って、悪いことした人に掛けられるもの……ですよね?」
「らしいですね」
「あ、もちろんサーシャさんのは、何かの間違いだって思ってますけど!」
「いやまあ、お気になさらず」
王族に飛び蹴りかましたのは事実だ。キルシュが、気遣わしげにサーシャの手の甲を見やる。
「あのぅ、それ、解呪できないんでしょうか」
「残念ながら、掛けた本人じゃないと無理だそうで」
宮廷を出るときに、メイヤから教わったことだ。烙印の解除は、施した魔術師にしかできない。今回の件が、真実バーンウッド辺境伯の逆恨みによるものであれば、魔術師の正体を知っているのは彼だけということになる。
辺境伯は、しばらく王都に滞在するらしい。とはいえ、王族の身辺を探るような真似は、一料理人であるサーシャには到底不可能だ。
当面、そちらはミリアガルデ第三王女とメイヤに任せるしか無いだろう。
キルシュが持ち出した荷車によって、引越しはつつがなく完了した。
二人で荷下ろしを終える頃には、夜空に、二つの月と無数の星が瞬いていた。残念ながら、本日「踊る月輪亭」は臨時休業である。
「ちょっとお掃除出来てないので、埃っぽいですが!」
「いえ、充分ですよ。何しろタダですからね」
キルシュの父が使っていたという空き部屋は、確かに薄く埃を被ってはいたものの、よく整頓されていた。
大きめの寝台とシーツ。黒壇に似た色合いの衣装棚と、明るい色の机と椅子。明かり窓と、フェルトのカーテン。
「とりあえず今日は我慢してもらって、明日シーツとか洗濯しますね」
「自分でやります。家事の分担、決めないといけませんね」
炊事ができない分、何がしかで貢献したいところだ。炊事以外に得意な家事はないので、精霊語と努力で何とかしていきたい。
「それで、こっちが例のお風呂です」
「水火精式浴槽! 自宅にコレがあるの、最っ高ですね……」
サーシャが借りていた賃貸部屋には、入浴設備は存在しなかった。沸かした湯で身体を拭くか、通りの反対側にある公衆浴場まで歩くかの二択だ。
しかしこれで、毎日清潔なお湯に入ることができる。それも湯沸かしの手間が少ない精霊式で。
サーシャは陶器の浴槽に近づき、中を覗き込んだ。青みを帯びた、半透明の精霊がごろごろと転がっている。
『こんにちは、水精さん』
『あら、どちら様? ヒトにしては、随分綺麗な発音ね』
『どうも。今日からここでお世話になる、サーシャと言います。どうぞよしなに』
『そうなの? 話ができるヒトは大歓迎だわ。宜しくね、サーシャ』
ひらひらと手を振って、湯船から離れる。湯を沸かすための給湯釜の下を覗いて、火精にも挨拶を済ませる。
今度、ひと掬いの蜂蜜を持ってくると伝えて、部屋を出た。
キルシュが感嘆のため息をつく。
「やっぱりサーシャさん、すっごく精霊語が上手ですよね……」
「まあ、日常会話程度なら。キルシュさんも勉強してみます? 便利ですよ。料理でも、それ以外でも」
「うっ、検討します……」
精霊とのコミュニケーションは、潤いのある生活に必要不可欠だ。定期的にお菓子や蜂蜜を差し入れるだけでも問題はないけれど、会話が出来るに越したことはない。
逆に彼ら(といっても無性だが)をおざなりに扱い過ぎると、家を出て行かれてしまう。そこまでいかずとも、へそを曲げて「お願い」にきちんと答えて貰えなくなる。つまり折角のお風呂に入れなくなる。死活問題だ。
「家付の精霊って、他にいます?」
「後は店の冷蔵庫にいる氷精さんくらいですかね」
「了解です。そちらは明日にしましょう」
その日はサーシャの指導と協力の下、キルシュが鹿肉をローストした。普段の食事も、店の厨房で作っているそうだ。生野菜を手で千切るだけなら問題ないことに気づいたサーシャは、ひたすら葉物野菜を千切ってサラダを作った。
「『踊る月輪亭』の新しい門出に、かんぱーい!」
「はいはい乾杯乾杯」
葡萄酒を注いだグラスを掲げる。グランベル王国に、飲酒年齢に関する定めはない。そもそも十六歳のサーシャも、十七歳のキルシュも、王国基準では立派な成人だ。
ささやかな祝宴は、中々の盛り上がりを見せた。火精に細かく注文をつけて低温で焼き上げたローストはしっとりと柔らかく、形の歪なサラダも悪くなかった。
話すべきことは無限にあった。主に、『踊る月輪亭』の新展開について。新しいメニュー、仕入れの見直し、宣伝方法その他諸々。
夜が更けるまで語り合い、順番に風呂に浸かって、泥のように眠った。
ここまでは順調だった。それはそうだ。
まだ、何も始まってはいないのだから。
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