副料理長の就職

「お、───お待たせしました」


 陶器の皿を載せた盆を手に、キルシュが客席へと歩み寄る。緊張のせいか、足が震えていた。

 それでも背筋は先ほどよりも伸びていて、ちゃんと前を向いている。

 サーシャはカウンター席に腰掛けて、相手の反応を伺った。ガナードは置かれた皿に視線を落とし、しきりに鼻をひくつかせている。

 高利貸しが、怪訝そうに言った。


「……随分と様変わりしましたが」


「その、えと。お試しください」


 キルシュは木の盆をきゅっと胸に抱えて、真っ直ぐにガナードを見据えた。足の震えは止まらない。けれど翠の目は、もう怯えてはいなかった。

 キルシュの態度に、かえってガナードのほうが鼻白んだ。それを誤魔化すように、二股のフォークを手に掴む。


「いいでしょう。では」


 金の指輪で飾られた手が、タレの絡むモツを突き刺して、口へ運んだ。キルシュは、固唾を飲んでそれを見つめる。

 静かな店内に、カツカツと木の擦れる音だけが響く。

 しばらくの間、ガナードは無言だった。

 無言で───食べ続けていた。

 尖った顎が上下に動く度、その目が段々と大きく見開かれていく。喉が忙しなく上下に動く。

 ややあって、彼は呆然と口を開いた。


「……なんだこれは」


 がたり。ガナードが、椅子を蹴るように立ち上がった。その勢いのまま、キルシュに詰め寄る。


「こんな料理は、どの店も出していない! 『山海楼』も、『天上美食苑』もだ! 味付けの理屈は分かる。蜂蜜とアマンサの甘み、エカトネの辛味、酒による臭み飛ばし! でも、肝心な部分が分からない。僕の知らない調味料が使われてる。おい、きみ、一体何を───」


「そこまで」


 キルシュの襟首に伸びた手が、ぴたりと止まった。


「そこまでです。それ以上近づくと、火傷しますよ」


 二人の間を、火の粉を散らして火精が通り過ぎていく。高温の鱗粉に鼻頭を焼かれ、ガナードがぎゃっと悲鳴を上げた。


『ありがとう』


 精霊語で礼を告げて、サーシャはカウンター席を立った。そのまま、キルシュを庇うように二人の間へと割って入る。

 ガナードが赤くなった鼻を押さえて、ぎろりとサーシャを睨め付けた。


「きみ、精霊使だったのか」


「違いますって」


「何でもいい。このソースは何だ? どこで仕入れた?」


「はっ」


 サーシャは思い切り口角を吊り上げて、鼻で笑った。


「ばっかじゃないですか? レシピは料理人の生命線。ソースの秘密は門外不出。だぁれが教えるものですか」


 ぴしりと指を突き出す。


「今回は特別な材料を使いましたが、似た味ならキルシュさん一人で再現できます。とっても美味しかったでしょう? 同じ内臓料理なら、『山海楼』にも負けやしません!」


 もちろんこれはハッタリだ。いくらなんでも、あの超一流店の一皿には敵うまい。

 ただし世の中、大口を叩くことが必要な場面もある。特に、金を持っている奴を相手にしているときは。


「さあ! さあさあ! どっちがいいですか? ここでキルシュさんから担保を取り上げて、このボロい店を手に入れるか。それとも彼女の未来に賭けて、きっちり利息と元金を回収するか!」


 「ボロ⁉︎」と叫ぶ声が聞こえたが、気にしてはいられない。けして視線を逸らさずに、サーシャはガナードを睨み続ける。

 そして。

 彼の手が、鼻から口元へと移動した。目つきが変わる。嫌味なサディストではなく、冷徹に算盤を弾く商人の顔になる。

 そう、それでいい。サーシャは口を閉じて、反応を伺った。

 ややあって、ガナードは静かに言った。


「100日だ」


 息を呑む。


「100日の間に、この店を繁盛させてみせろ。それまで返済は待ってやる。それと───」


「それと?」


 ガナードは肩の力を抜いて、両手を上げた。


「店で一番目立つ場所に、貼り紙を貼ってくれ。『ガナード氏は良心的な金融商人です。ご融資を希望の方は、お気軽にナッツ通りの赤い屋根まで』ってね」


  †


 ガナードが去った後、張り詰めていた糸が切れたかのように、キルシュはへろへろと床へしゃがみ込んだ。


「……ひゃくにち」


「よかったですね。猶予が貰えて」


 淡々としたサーシャの言葉に、キルシュがふにゃりと顔を崩す。今にも泣き出しそうにも、笑いたいようにも見える顔だ。彼女はよろよろと立ち上がって、ふらふらと歩き出す。

 サーシャの方へ。


「さーしゃさぁん」


「うわぷ。あー……はい、よしよし。よく頑張りましたね」


 サーシャは抱きついてきたキルシュを受け止め、軽く後頭部を撫でた。滑らかな亜麻色の髪は、するすると指が通り、撫でるだけで気持ちがいい。

 やがてキルシュが身を離すと、サーシャは、指の背で彼女の目元を拭った。照れたように、キルシュが微笑む。


「あの、本当にありがとうございました」


「いえいえ。それより、レシピの件ですが」


「レシピ?」


「ええ。あの調味料は、私にしか作れません。ただ、いくつかの素材を組み合わせることで、似た物は再現できます。なので、今後はそちらを───」


 キルシュの顎が落ちて、小さな口がぽかんと空いた。サーシャは言葉を切って、首を傾げる。


「どうかしましたか?」


「えっ、いえ、あのっ、サーシャさんしか作れないなら、サーシャさんが作ってくれれば良いのでは……?」


「アレは本来、この国に無いものです。大っぴらには使えません。それに、私はいなくなる訳ですし」


「何でですか⁉︎」


「いやだって、皿洗いの募集はしてないんですよね? 便宜上、さっきはああ言いましたが」


「してま、───す! ます! 今、再開しました! めちゃくちゃ皿洗い募集中です! あーあー、どこかにいい人いないかなあ⁉︎」


「あと、給与出せるんですか? 私、このままだと家賃が支払えないんですけど……」


「それは後払い……ですけど! この店二階が居住用で、父が使ってた部屋が余ってます! ご飯も出しますよ! 三食賄いつき! 水火精式のお風呂もあります!」


 どうですか! とキルシュはサーシャに食ってかかる。服の裾を握る手は、力の籠めすぎでプルプルと震えていた。はぐれた親をやっと見つけた、迷子の子供みたいに。

 堪えきれずに、サーシャの唇から笑みが零れた。もちろん、さっきの言葉は冗談だ。とっくに心は決まっていた。


「三食賄いアンド風呂付き。そいつは魅力的ですね」


「ですよね⁉︎ あ、でも、作るのあたしですけど……」


「教えてあげますよ」


 サーシャの言葉に、キルシュの顔が綻ぶ。春の朝に、日の光を受けて蕾が花開くように。

 かすかに青みを帯びた翠の瞳が、窓から射し込む昼下がりの光を浴びて、まるで宝石みたいだった。


「私が教えて、あなたが作る。そういう分担で行きましょう」


「───はい、サーシャ先生!」


「先生⁉︎」


「駄目ですか? じゃあ、サーちゃん!」


「サーちゃん⁉︎ 距離の詰め方バグってません⁉︎」


「バグ……?」


「あー、すみません流してください……」


 サーシャはキルシュの手をそっと解いて、背中を向けた。途端にキルシュの声が不安げに揺れる。


「えっ、あの……?」


 振り返るつもりは無かった。今、自分の口元は、無様ににやけてしまっているだろうから。

 誰だって、自らが誇りとすることで、誰かに求められたら嬉しい。まして、好感を持っている相手からなら尚更だ。

 できるだけ平静を装って、サーシャは答えた。


「荷物を持ってくるだけですよ。良ければ手伝ってもらえると、助かります」


「───はい、サーシャさん!」


 扉を開ける。軽やかにドアベルが鳴る。

 眩しい午後の光の中、表通りから届く街の喧騒が、耳に心地良かった。

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