レシピその1

「火精式ですか」


 サーシャが竈を覗くと、手のひら大の火精が一翅、横になって寝ていた。虫のような半透明の翅から、呼吸に合わせて、火の粉に似た鱗粉が舞っている。


「あ、はい! 母の代から居てくれるベテランさんです」


「結構。火加減の交渉は私がします。キルシュさんは、その椀からモツだけを取り除いて、よく洗ってください」


「あ、洗っちゃうんですか⁉︎」


「洗っちゃいましょう。というか、下拵えせず全部一気に煮込んだせいで、シチューに血の臭みが全部移っちゃってるんですよ。それがあの匂いの原因です」


「う、はい……」


「あと、本当は日本酒と味醂が欲しいとこですが、葡萄酒の白と蜂蜜で代用します。ありますか?」


「ありますけど、みりんって何ですか? にほん?」


「お気になさらず。じゃ、それもお願いしますー」


 匙でモツを選分け始めたキルシュをよそに、サーシャは竈の前にしゃがみ込んだ。ん、ん、と咳払いをして喉の調子を確かめる。精霊とのコミュニケーションで大切なのは、第一印象だ。人と同じ。

 焼け焦げた煉瓦に手をついて、中を覗き込む。


『こんにちは、初めまして。腕利きの火精さん』


 石床に伏していた火精が、とろりと目を覚ました。小さく半透明な身体に火が灯り、パッと竈が明るくなる。


『サーシャ・レイクサイドです。少しよろしい?』


『驚いた。こんなところに精霊使が来るなんて』


『私は精霊使じゃないですよ』


『でも、ぼくたちの言葉を話してる。とても綺麗な発音だよ』


『このくらい、一流の料理人なら当然です。例えば、キルシュさんのお母様のような』


 火精の纏う火が、嬉しげに揺らめいた。やはり、この子はキルシュの母を慕ってここに居着いているのだ。勘所を引き当てた手応えに、内心でほくそ笑む。


『アリア! アリアのことだね。そうとも、彼女は最高の料理人だった。ときどき蜂蜜を分けてくれたし』


『でしょうね。ところで、アリアさんの娘のキルシュさんが、とっても困ったことになってます。ご存知?』


『何となく。でもあの子は、ぼくたちの言葉を話せないから』


『ああ。実を言うと、この店が無くなるかどうかの瀬戸際なんです。力を貸してくれますか?』


 一際強い光と熱が、火精から放たれる。顔が焼けそうだ。


『ありがとう。私が合図したら、加減を調整してくださいね』


 サーシャが立ち上がると、キルシュがぽかんと口を開けていた。


「サーシャさんって、精霊使なんですか?」


「違いますよ。私はあくまで料理人です」


「めちゃくちゃ流暢な精霊語でしたけど⁉︎」


「私がいた店の精霊使なら、十翅同時に交渉できますよ。大したことないない」


「えええ、どんな店で働いてたんですか……?」


 モツを洗いながら、キルシュは、信じ難いものを見る目でサーシャの澄まし顔を見つめた。そもそも十翅も精霊がいる厨房というのが想像できない。並みの食堂なら、竈の火精と保存庫の氷精、合わせて二翅も居れば上等だ。それが十翅? 「山海楼」じゃあるまいし。


「わたしなんて、『点けて』『消して』『強い』『弱い』しか発音できないですよ……?」


「ま、そんなもんじゃないですか」


 街にいる精霊の大半は、公用語を聞き取れない。だから料理人は精霊語を学ぶが、習熟度はピンキリだ。キルシュ同様に、最低限の単語しか話せない者が大半で、当然、それでは精霊と交渉してやる気を引き出すような真似は出来ない。

 サーシャの語学力は、おおむね日常会話を熟せるレベルだ。これが宮廷厨房のハイネみたいな本物の精霊使となれば、極まった早口言葉みたいな圧縮言語を操って、全く同時に複数の精霊へ「お願い」が出来る。


「ほらほら、いいから手を動かす!」


「は、はい!」


 浮かんだ疑問を脇に避けて、キルシュは蛇口を絞った。ザルを揺すり、より分けたモツに水をかける。


「洗い終わりました!」


「宜しい。では、エカトネを刻んで、アマンサをすり下ろしてください」


 ユリ科植物に似たエカトネの球根は辛みを、白いアマンサの果肉は甘さとコクを生む。

 キルシュの手つきをみて、サーシャは彼女の評価を上方修正した。意外にも、包丁を扱う手際は悪くない。試行錯誤のなかで身につけたのだろうか。もちろん、かつてのサーシャの同僚たちや、サーシャ自身とは比較できるものではないが。


「出来ました!」


「グッド。では、始めましょう。まずは鍋で脂を焼いてください。油が染み出したらまずエカトネ。その後ゆっくり十五を数えてから、モツを入れて葡萄酒の白をひと回し」


「はい!」


『火精さん、点火。鍋の底が焦げないくらいに』


『了解。鍋の底が焦げないくらいに』


 キルシュが鉄鍋の持ち手を掴んだ。白い脂身が、ぱちぱちと音を立てて焼けていく。放り込んだモツに葡萄酒を振り掛けると、酒精が蒸発して香りを立てた。


「蜂蜜を三掬いして、木べらで混ぜてください。


「はい!」


『火精さん、火力落として。火の粉が鍋に届かないくらい』


『了解。火の粉が鍋に届かないくらい』


「すり下ろしたアマンサをふた匙半。焦がさないよう、手は止めない!」


「こ、こうですか?」


「宜しい。では仕上げです」


 サーシャは、革の鞄から陶器の小瓶を取り出した。計量用の匙さえ使えないのは面倒だが、目分量でも間違えたりはしない。


「それ、なんですか?」


「魔法の調味料、ですかね」


 これはサーシャの奥の手だ。

 レシピは料理人の生命線。中でもソースの秘密は門外不出。だから、「これ」の存在を知っている人間は、片手の指ほどしかいない。サーシャ自身、極力人前では使わないと決めている。

 ただ、今回はもう、なりふり構わないと決めたから。


「キルシュさん」


「はい!」


「驚いても、手は止めないで下さいね」


「はい?」


 サーシャは、鍋の上でそっと瓶を傾けた。中身は液体だ。濃い赤みのある、黒曜石を溶かしたような黒い液体。この世界には、存在しないはずの調味料。


「───えっ」


 じゅわ。

 黒い液体は、熱を帯びた鉄の肌に触れて、褐色の泡を浮かべた。

 三〇〇を超える香気成分が揮発し、調理場一面に立ち込める。メイラード反応。アミノカルボニル反応。大豆と酵母、フラノン類やエステル類が絡み合って生まれる、複雑玄妙な匂い。

 サーシャ・レイクサイドの前世では、当たり前にあった匂い。

 


「えっ、えっ。これなんですか⁉︎ 毒⁉︎」


「さすがに盛りませんって。豆科の植物から作る発酵調味料……の、再現品です。種麹探しから初めて、だいたい五年がけで作り上げました」


「それ食べて大丈夫なんです⁉︎」


「それは保証しますよ。この辺の人、味覚が私の故郷と似てるみたいですし」


「サーシャさんの故郷ってどこですか?」


「とおいとおーい島国です」


 二度と戻れないくらいに遠い。


『火精さん、消火』


『消火。了解』


 竈の火が落ちる。キルシュは、鍋の中身を木椀へと移し替えた。立ち昇る香りに、その鼻がひくひく動く。


「ほんとだ。香ばしくて、良い匂い……」


「王国の料理人としては、反則ですけどね。今回は反則上等です。生まれて初めての味で、椅子から転げ落としてやりましょう。とと、その前に、」


 サーシャは食事用のフォークで、モツをひとつ突き刺した。蜂蜜のとろみを纏い、てらてらと赤茶色に艶めくそれを、キルシュの口元へ差し出す。


「食べてください」


「い、いいんですか?」


「もちろん。料理人は、客に出すものの味を知らなくてはいけません」


 桜色の唇が、戸惑いながら開く。

 キルシュはふうふうと息を吹きかけて、唾を飲んだ。

 ぱくりと食いつく。

 途端に、大きな翠の瞳が、こぼれ落ちそうなくらいに見開いた。


「───美味しい」


「カリン羊の内臓は、丈夫で分厚く、単に焼いてもこうはなりません」


 サーシャも、モツをひとつ口に運ぶ。蜂蜜とアマンサの甘み。焼き目は香ばしく、醤油の旨味を強調する。

 そして、するりと前歯で噛み切れる独特の食感。


「これを作れたのは、キルシュさんの仕込みがあったからです。今の手際も、悪くなかったですよ」


「これを、あたしが……」


 キルシュの瞳が、きらきらと輝いた。その光に、サーシャは目を細める。

 美味しいものは、人を少しだけ幸せにする。それは、けして、食べる側だけの話ではない。

 ───ああ、やっぱりいいなあ。そう思う。

 ステーキを床に捨てた辺境伯に怒りをぶつけたことを、後悔はしていない。けれど、やはりこの烙印が恨めしい。

 料理が好きだ。掛け値なしに。叶うなら、ずっと厨房に立っていたい。

 でもきっと、これがサーシャ・レイクサイドの作る、最後の料理だ。

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