Re.Kitchen

 「踊る月輪亭」の、かつての職場の四分の一もない厨房に立った瞬間、すべての感覚が鮮明になった気がした。

 陶器のタイルを貼られた壁が、煉瓦の竈が、吊るされた鍋や木べらが、棚に詰め込まれた塩漬け肉や野菜たちが、物も言わずサーシャを出迎えている気がした。

 君の居場所はここだと、天啓が囁いているようだった。


「あのあのあの!」


「なんですか騒々しい」


「お、おお、お客様ですよね⁉︎ なんで厨房に入ってきてるんですか⁉︎ あとあの啖呵!」


「そりゃ啖呵くらい切りますよムカつくじゃないですかあの態度」


「でもでも、ガナードさんはお金を貸してくれた良い人で!」


「どーう考えても、この店の抵当権狙いですよ。立地はまあまあですけど、建物は立派ですから」


 目を白黒させているキルシュを横目に、サーシャは竈の脇に置いた木椀を眺めた。一から作り直す時間はない。リメイクだ。

 レシピはもう決まっている。相手はいかにも食通ぶった小金持ちの男。とはいえ、こんな店に自ら足を運ぶ以上、あくまで庶民だ。

 ならば繊細さを是とする宮廷式ではなく、「前世式」でいきたい。ああいうタイプには、物珍しく、それでいてシンプルな味付けが一番響く。

 けれど。

 もちろん今のサーシャ一人では、何も出来ない。薄い手袋の下で、忌まわしい烙印が疼いた。


「キルシュさん」


「はい! あ、名前……」


「さっきあの男が呼んでたじゃないですか。そんなことはどうでも宜しい。いいですか、キルシュさん」


 サーシャは振り返り、キルシュの翠の瞳を真っ直ぐ見据えた。


「こう見えて、私は料理人です。それもとびきりの。私のレシピに従えば、必ずやあの優男気取りをぎゃふんと言わせることが出来ます。で・す・が、」


 手袋のふちに手をかける。一呼吸の間だけ躊躇い、けれど振り切るように脱ぎ捨てた。淡い粒子を纏う、緋色の刻印が露わになる。折れた包丁の意匠、料理人殺しの烙印。

 キルシュが息を呑む。刻印は、罪人の証だ。


「こいつのせいで、大変遺憾ながら、私は自分で料理が出来ません。だから、作るのはあなたです」


「あ───あたしが、ですか?」


「そうです。出来ますか。赤の他人の私を信じて、烙印持ちの私を信じて、この店の命運を賭けてくれますか」


 キルシュの瞳が揺れる。無茶な話だ、と思った。この話を信じる根拠がどこにもない。サーシャがキルシュの立場なら、信じない。


「……ひとつだけ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「なんで3点だったんですか? 0点じゃなくて」


 意表をつかれて、サーシャは一瞬、言葉に詰まった。もちろん理由はある。何の根拠もない採点を、サーシャ・レイクサイドは行わない。そして、その3点こそが、サーシャがこの店を訪れた理由でもあった。

 戸惑いながら、一本指を立てる。


「ひとつは、素材です。使われていたモツ自体は、決して悪くなかった。それであの値段ということは、腕が良くて良心的な肉屋から仕入れているはず。それが1点」


「……お母さんと同じお店から、仕入れてるんです」


「なるほど。それから、二つ目は煮込み時間」


 二本目の指を立てる。


「仕込みはなってないですが、とにかくちゃんと長い時間を掛けて煮込まれていました。だから柔らかくて、するっと噛み切れた。これで2点」


 そして三本目。これが決め手だ。


「にも関わらず、焦げ臭い匂いが全くしなかった。きちんと鍋に水を足し続け、かき混ぜ続けたからです。つまり、手抜きをしていない」


 合計3点。

 だからこそ、とサーシャは思う。だからこそ惜しい。

 確かに課題だらけの出来ではある。臭みはひどいし味はでたらめ、スパイスの香りは彼方へ飛び去り、野菜は溶けてぐちゃぐちゃだ。

 でも。


「あなたの料理は、美味しくはないけれど、とても誠実です」


 キルシュの瞳に、涙の膜が張った。昼下がりの光を受けて、透明に輝く。

 綺麗だな、と思った。泣き虫だ、とも。

 サーシャは咳払いをして、両手を打ち合わせた。呑気に感動なんかしている場合ではないのだ。今このときが、存亡の危機なのだから。


「さあ、決めてください。もう時間は、」


「信じます」


 ぐしぐしと乱暴に目元を拭って、キルシュが、調理台の端に掛かったエプロンを手に取った。ソースや油で汚れたそれを身に纏い、熱の篭った瞳でサーシャを見つめる。


「サーシャさんを、信じます。だから、私に、料理を教えてください」


「───いいでしょう。さあ、急ぎますよ! ここからは、料理の時間です!」


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