キルシュの事情
翌日、サーシャは再び「踊る月輪亭」を訪れた。今日は店内に他の客はいなかった。サーシャ自身、客ではないのだが。
「いらっしゃいませ───あ、この前の!」
「……ど、どうも」
「わっ、また来てくれたんですね! 嬉しいです!」
花咲くような笑顔が、心に突き刺さる。罪悪感を噛み締めながら、サーシャは首を横に振った。
「いえ、ごめんなさい、そうではないんです。その、今回は求人票を見て」
「求人票?」
サーシャは懐から一枚の紙を取り出した。それを見た少女の顔が、「しまった」と言わんばかりに曇る。つくづく分かりやすい。
「面接希望です。その、───皿洗いとして」
その言葉に、少女の眉が八の字を描く。なんだか妙に馴染む困り眉のまま、彼女はもごもごと謝罪した。
「ごめんなさい。それ、取り下げを忘れていただけなんです。今、誰かを雇うことは出来ません」
「……そうですか」
そうかもしれない、とは思っていた。サーシャは視線を左右に投げる。この状態で、洗う皿が余っているとは思えない。沈むサーシャの表情を見て、少女が付け加えた。
「あの、実はこのお店、取り上げられちゃうんです。借金の抵当として」
「ああ、そういう……」
珍しい話ではない。「前世」でもままある話だ。銀行から、土地や店舗を担保に運転資金を借り入れる。店が繁盛し、順調に返済が進めば問題ないが、そうで無い場合は、いずれ担保を差し出すことになる。
「ここは、お母さんの店なんです」
少女の指がカウンターを撫でる。木目に刻まれた年輪と、降り積もった月日をなぞるように。
「お母さんが生きていた頃は、いつも満席だったそうです。昼も夜もお客さんが沢山詰めかけて、あのシチューは母の得意料理で、私も子供の頃、よく食べていました」
だったそうです? どうして伝聞系なのだろう。いや、そんなことより───
サーシャの脳裏に、過去の記憶が反響した。サーシャ・レイクサイドの記憶ではなく、「前世」の記憶だ。日本という国で、あるレストランの一人娘として生きた記憶。
「なら、お母様のレシピどおりに作れば良いじゃないですか」
「無いんです」
泣き笑いのような顔で、少女が言った。
「お母さんは、文字を書けない人でした。そのうえ急な事故で亡くなったので、レシピが無いんです。直接教わる機会も、ほとんどありませんでした。私は、ずっと寄宿舎にいたので」
どうりで綺麗な字を書くわけだ。ふと、そんなことを思った。
「お母さんが死んで、お父さんはどこにいるかわからなくて。でも、このお店だけは残したくて、見よう見真似でレシピを再現しようとしたんですけど。やっぱり、無謀でした」
「……経験のある料理人を雇えばよかったのでは?」
「はい。私もそう思って、お店を担保にお金を借りて、人を雇ったんです。でも、その人が悪い人で。運転資金として借りた金貨、丸っと持ち逃げされちゃいました」
あの求人票は、その頃から出しっぱなしのものです。
少女が補足した。無理やり取り繕うような明るい声が、ひたすら痛々しい。
「それで資金を失い、借金だけが残って、やむなく自分で料理を始めた、と」
「やっぱり無理でしたけどね」
サーシャの脳裏に、閃く記憶があった。
『これ以上は、もう無理だ』
しゃがれた男の声が響く。今、サーシャが口にしている大陸公用語とは別の、けれど耳に馴染んだ言語で、男は言う。
娘に向かって、語り掛ける。
『この店は畳む。すまん、父さんが間違っていた』
『きっと、お前の言うとおりだったんだ』
衝動が口を衝いた。
「諦めるんですか?」
「え?」
「レシピがなくて、騙されて、アテがなくて目処が立たなくて、だから、それで、諦めきれるんですか?」
出過ぎたことを言っている。そう思いながら、サーシャは少女から目を逸らさない。逸らせない。
私なら───私だって。
少女の大きな瞳に、涙の膜が張った。目尻が潤み、雫を湛える。
サーシャは一歩足を踏み出した。そして口を開きかけた、その時だった。
ドアベルが鳴った。
扉には、若い男が立っていた。この前サーシャとすれ違った男だ。
「い、いらっしゃいま───せ。ガナード、さん」
乱暴に目元を拭った少女が、優男に向き直る。相手の顔を認識した途端、彼女は明らかに萎縮した。よほど厄介な客なのだろうか。
ガナードと呼ばれた男は、サーシャを一瞥した後、ガタガタと椅子を引いて腰掛けた。
そして、妙に芝居がかった声で言った。
「キルシュさん、約束の日だ。分かっているね。二つに一つだ。この店を明け渡すか、まだ返済の見込があると僕を納得させるか」
その言葉でピンときた。このガナードという男が、件の金貸しに違いない。
「ひと月前、きみが言ったことは覚えているね。返済の見込みがあると証明する、と。ここは食堂だ。美味い飯さえ作れたら、客は入る。作れるようになるから待ってくれ、と」
「……はい」
少女の───キルシュの喉が鳴る。
「ごもっとも。僕は優しいからね。待つことにした。ついでに時折、飯も食いに来た。さて、一昨日食べたランチは、まあ犬の餌が精々だったが、今日はどうかな? 天啓でも降ってきたかい?」
サーシャは内心で舌打ちした。態度も言葉も顔つきも嫌味だが、ガナードが言っていることは正しい。
運転資金として金を借りた以上、返済が滞ったなら、二つに一つだ。担保を払うか、将来に渡る返済能力を示すか。
キルシュは青褪めた顔で口を開き、躊躇い、俯き、そして一瞬だけ、サーシャの顔を見た。
そうして顔を上げ、決然と言った。
「食事を用意します。味に納得が出来たら、返済を待って頂けますか」
「……いい度胸だね」
ガナードが肩をすくめた。
「いいよ。僕は優しいからね。何が出てくるか楽しみだ」
キルシュが振り返り、カウンターの内側へ入る。微かに足が震えていた。
今から彼女に出来ることなんて、ありはしない。
ややあって、暗い面持ちで厨房から現れたキルシュは、おそるおそる木椀をガナードの前に置いた。
ガナードはそれをひと匙掬い、口に運ぶ。そうして、口角を上げた。
「まっず」
頬を張られたかのように、キルシュが両目を瞑った。瞑って正解だったろう。ガナードが、咀嚼した肉を床に吐き捨てる瞬間を、目にせずに済んだのだから。
「いや本当に不味いね。何の進歩もない。どこかの店で修行するのが先じゃない? まあ、そんなの待ってられないし、そもそもどこも雇ってくれないだろうけど」
「っ、あ、う」
キルシュの目尻に涙が溜まる。彼女には、言い返すだけの背景が無い。ガナードの言葉は、全て事実だ。キルシュの臓物煮込みが不味いのも、彼女を雇うレストランが無いことも、一から修行を重ねる時間がないことも。
でも、彼女は逃げなかった。
では、私は? お前はどうなんだ、サーシャ・レイクサイド。
宮廷料理人の座を終われ、包丁も鍋もすりこぎ棒も持てなくなって、名のあるレストランの全てから袖にされて、だから、それで、お前はどうなんだ?
サーシャはカラカラの喉を開く。
「では、作り直しましょう」
席を蹴って立ち上がる。
「口に合わないというなら、仕方ありません。お作り直しするので、今少しお待ち頂けますか」
「……君は?」
ガナードが怪訝そうに目を細める。サーシャはちらとキルシュを見遣り、微かに微笑んだ。
震える足で、それでも逃げなかったあなたを尊敬する。
怯えながら料理を出すのは最低だけれど、料理を出すこと自体を放棄するよりはずっとマシだ。
だから。
「『踊る月輪亭』の皿洗い担当、サーシャ・レイクサイドです。すぐに吠え面かかせて差し上げるので、その食べかけの椀、お預かりしますね?」
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