「料理人殺し」

 朝起きて、サーシャは日課になりつつある挑戦を行った。キッチンに立ち、まな板の上に置かれた相棒を見下ろす。料理人の相棒とは、即ち包丁だ。八歳のときから一度として手入れを怠っていない鉄の包丁───シェフナイフ。

 生唾を飲み、そろそろと人差し指を伸ばす。距離が近づく。

 バチッ。指先が柄に触れた瞬間、赤い火花が散った。


「いったぁ⁉︎」


 やはり今日も駄目だった。どうやら、いよいよ信じなくてはいけないらしい。ベックの言葉を。

 この忌々しい、両手の甲に刻まれた印の意味を。



 三日前の話だ。

 あの後、サーシャが目が覚ましたのはベッドの上だった。傍には、黒いワンピースに白のエプロンドレスを───つまりメイド服を着た友人が立って、ペティナイフで果物の皮を剥いていた。


「……メイヤ?」


「あら、おはよう、サーシャ。気分はいかが?」


「ふつう」


「それは重畳。食べる?」


 メイヤの細い指先が、白い果実を摘む。そのまま口元まで運ばれてきたので、かぱっと口を開けた。熟れた香りが鼻先をくすぐる。前歯で噛み付くと、甘くてしゃりしゃりした食感が口一杯に広がった。


「おいひいですね」


「お眼鏡にかなってよかった。ミリアガルデ殿下の差し入れよ」


「へー。……殿下、私のこと好き過ぎないですかね……?」


「あなたのファンだもの」


 メイヤは、口元に曲げた指を当てて微笑んだ。第三王女付きの給仕メイドである彼女は、所作のひとつひとつに品がある。とても同い年とは思えない。

 サーシャはシーツに手をついて、上半身を起こした。部屋にはベッドが幾つか据えられている。どうやら仮眠室のようだ。他にも客がいるらしく、向かいのベッドのシーツが膨らんでいる。


「身体の調子は? 痛いところはない?」


「問題ない、と思いますけど」


 どこにも痛みや不快感はない。強いて言えば、右手の甲に深い緋色をした刺青のようなものが見えるくらいだ。淡く発光していて、なんだか綺麗。


 いやいやいや。


「え、なんですかこれ。うわ、両手だ! 左手にもある!」


 刺青の意匠はシンプルだ。中央で二つに折れた剣。いや、これは───包丁だろうか? あの魔術師も、そんなことを言っていたような気がする。

 手の甲をシーツで拭っても、当然消える様子はない。


「ここに運ぶとき、私も見たけれど。それ、烙印よね」


「らくいん」


「呪術の一種よ。罪人に掛けられるやつ」


「ざいにん」


 そうだ、と太い声がした。向かいのベッドが軋む。身を起こしたのは、ベックだった。片手で背中を摩っている。


「総料理長! 背中、大丈夫です?」


「軽い打撲だ。問題ない。それよりサーシャ、お前の方が百倍問題だぞ」


「はあ」


「真面目に聞け。その手の烙印が本物なら、お前の料理人人生の危機だ」


「国家的損失の危機じゃないですか」


 私から料理を取ったら顔しか残らないぞ。サーシャは口の中で呟く。


「どういうことです?」


「烙印ってのは、一般に何かを禁止する魔術だ。宝石泥棒で捕まったやつが、二度と宝石に触れないように。あるいは、人を殴って殺しちまったやつが、二度と人を殴れないように制限する。そういうもんだ」


「へえ」


「相変わらずの世間知らずだな、お前は。まあいい。とにかく、その中にひとつ、やらかした料理人に刻まれる烙印がある」


「やらかした料理人と言いますと」


「知らん。実際に掛けられた間抜けを見たのは俺も初めてだ。とにかく、俺が聞いた話じゃ、その烙印をつけられたやつは───あらゆる調理器具を持てなくなる、そうだ」


「はい?」


「だから、包丁だの鍋だのすりこぎ棒だのが一切手に持てなくなるんだとよ。本当かは知らん。試してみちゃどうだ?」


 このときまで、サーシャはこれが何かの冗談だと思っていた。ベックの話は何かの冗談、あるいは勘違いだろうと。

 サイドテーブルの上。メイヤが、赤く熟れたアマンサの皮を剥くのに使っていたペティナイフに目を向ける。メイヤの気遣わしげな視線をよそに、サーシャはその、おもちゃみたいなナイフの柄を無造作に掴み、そして───絶叫した。


「みぎゃー‼︎」


  †


 サーシャは自室のキッチンに立ったまま、恨みがましい目で自身の相棒を睨め付けた。

 「前世」に存在したシェフナイフとそっくり同じ形をした、鉄の包丁。そいつは今、呑気にまな板で寝そべっている。

 サーシャは心の中で相棒に語りかけた。おいおい。七歳のときから片時も離れず、一度たりと錆びつかせず、手入れをしてやったじゃないか。父母と死に別れて王都へやってきたときも、「山海楼」での修行の日々も、ミリアガルデ第三王女の目に止まって宮廷料理人に抜擢された後も。ずっと一緒にやってきたじゃないか。

 その挙句、こんなお別れなんてあんまりだ。

 目尻の奥から熱が込み上げ、涙が潤む。湧き上がる衝動を堪えて、夜着の袖で両目を擦った。

 感傷に浸る時間はない。

 今のサーシャは文無しの職なしで、「前世」と違ってこのグランベルには、行き届いた社会福祉もセーフティネットも存在しないのだ。働かざるもの食うべからず。そして死ね!

 そういう世界なのだから。


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