副料理長の就活
「無理」
鉄アイロンで巻いた豊かな金髪を撫でつけて、「山海楼」の若きオーナー、アーシェリアは首を横に振った。
四方の壁一面にあらゆる禽獣の絵が描き込まれた一室は、主の趣味を表すかのように煌びやかで派手派手しい。
若干十八歳で父の跡を継いだ俊英は、もう一度繰り返した。
「無理。包丁握れないアンタを雇う余裕は、ウチにだって無いわよ」
腰が沈みそうなソファに腰掛けたまま、サーシャはため息をついた。
「やっぱり駄目ですか? 昔のよしみじゃないですか。料理ができなくても、ほら、皿洗いとか」
「そんな仕事があるのは精霊使を雇ってない零細店だけでしょ。ウチが何人、腕利きを抱えてると思ってんのよ」
アーシェリアの瞳が、忌々しげにサーシャの手の甲を睨め付けた。
そこに刻まれた緋色の烙印を見たとき、彼女は比喩ではなく椅子から転がり落ちた。それから語彙を尽くしてサーシャを罵倒した。ばかあほ間抜け。ばか。ばかばか。それ「料理人殺し」じゃない。アンタ何やってんの。
そんな醜態は無かったかのように、アーシェリアは形の良い顎を組んだ両手の上に載せて言う。
「料理人のサーシャ・レイクサイドになら、相場の五倍の給与を出してやってもいい。曲がりなりにも王都一の看板出してる、『山海楼』の相場でよ。でも、そうでないアンタは要らない」
「そのう、いっそ給仕役とかでも」
「アンタ、見習い時代に何皿割ったか覚えてる?」
覚えているわけがない。いっぱい割って、クビになりかけたことだけは記憶に残っている。
「その手の烙印が剥がれたら歓迎するわ」
話は終わりとばかりに、アーシェリアが窓際に立った。柔らかな午後の陽射しが、彼女の金髪を撫でつける。
サーシャも、悄然とソファを立った。やはり、世の中そこまで甘くはないらしい。世知辛いと嘆く一方で、旧友の言い分はもっともだと感じてもいた。料理ができないサーシャ・レイクサイドに、一体なんの価値があるだろう。やはり顔か。この艶やかな銀色の髪と、琥珀の瞳か。
失意を抱えたサーシャは、とぼとぼとオーナールームを、山海楼を後にした。
一人きりの部屋で、たっぷりと溜めを演出したアーシェリアが、満を持して振り返る。手の込んだフリルで飾り立てられたスカートが、ふわりと浮いた。
「ま、まあでも? もし行く当てが無いのなら? このアーシェリアが? 幼馴染として、個人的に? ハウスメイドとして雇ってあげても、その、良いのだけど───えっ、あっ、あれ? サーシャ? どこいったの? お手洗い? サ、サーシャ! サーちゃん! まだお話の途中なんだけど!」
†
「アンタ、辺境伯様に飛び蹴りかました、『あの』サーシャだろ?」
「烙印持ちは雇えないよ。看板に傷がついちまう」
「皿洗いも給仕も足りてるんでね」
全滅! ものの見事に全滅だ。
「山海楼」だけじゃない。「ミート・アイランド・パーク」も、「天球の廻転亭」も、「天上美食苑」も「口福食堂」もその他諸々も! どこもかしこもこのサーシャ・レイクサイドを袖にしやがった。ちょっと包丁と鍋が握れず、王族に飛び蹴りをかましたというだけで!
当然の結果だった。
一体どこのオーナーが、包丁も鍋も握れず、王族に飛び蹴りをかます十六歳を雇いたいと思うだろう。
厨房は実力社会だが、同時にはっきりと男社会だ。そこでサーシャが上り詰められたのは、文句を言う相手の口に片端から飛びっきりのスペシャリテを叩き込み、「美味い」以外の言葉を全て封じてきたからだ。
今だって、その自信はある。
相変わらず、サーシャ・レイクサイドは最高の料理人だ───ただ一本の包丁と、鉄鍋を握れさえすれば。
自らの手の甲を、忌々しく見つめる。
今のサーシャは、ガーガー鳥のスクランブルエッグさえ作れない。小麦の麺も茹でられず、スープをかき混ぜることも出来ず、果物の皮を剥くことさえ不可能だ。料理人としては、見習い以下。
「くそったれぇ……」
木のベンチに腰掛けて、ぼんやりと昼時の市場を眺める。
仕入れの時間はとうに終わり、魚や野菜を売る店は撤収済みだ。取って代わるかのように、昼飯を売る移動屋台が呼び込みを始めている。白い湯気を立てる蒸し芋に、脂を滴らせる吊り焼肉。干し魚を挟んだパン。小型の竈で、炒り卵とクレープを焼く男もいる。
思わず自嘲が零れた。あんな安っぽい、空腹を満たすためだけの料理さえ、今のサーシャには作れない。
「……あー……」
やばい。駄目だ。
また熱いものが込み上げそうになっている。唇を噛む。噛んで、激情をやり過ごす。
きゅるる、と腹が鳴った。
人生の一番悪いときだって、腹は減る。
ポケットを探ると、銅貨が数枚出てきた。居並ぶ屋台をちらと見て、首を振る。今は、活気が目に眩しかった。
表通りを歩きながら、入り口前に出されたお品書きをチェックする。まともな外観の店は、ことごとく予算が足りない。手の届く店は、いかにもな外観ばかり。一人で飛び込む度胸は無かった。美味しくなくても、せめてそれなりに清潔で、変な混ぜ物(絵の具とか!)が入っていないものが食べたい。
歩くほどに人影が少なくなり、店の数も減っていく。
大人しく屋台にすれはよかったかな。
後悔を覚えたころ、通りの端で食堂を見つけた。表に出している黒板に、手書きの文字が記されている。丁寧な文字だ。店員の真摯さが表れているかのように。
空きっ腹に、一番上の一行が目に飛び込んできた。
羊の内臓の煮込みシチュー ───銅貨三枚
はは、と乾いた笑いが零れた。きっと、と思う。きっと私が10点をつけたあの煮込み料理だって、この店よりは遥かにまともに違いない。
ただ、硝子窓から覗いた店内はよく掃除されていて、二人だけだが先客もいた。何より今は、腹が空き過ぎている。
サーシャは鍍金の禿げたノブを握り、重い扉を押した。
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