後編

 そんなときに、「んー、何、小説書いてるの?」と声をかけてきたのは、姉の桜だった。



 五歳年上で、常にぷかぷかと浮いているような、足元のおぼつかない喋り方をする姉は現在ライトノベルの作家をやっている。


 中学二年生の時にデビューし、そこから執筆を続けているのだ。


 あんなイラストだけで成り立っているような退廃文学の何がいいのか。


 アニメで動かすことを前提としている物語の、何がいいのか。


 微塵も理解できなかった。


 そんな反抗心から、私は文章を磨き始めたのだ。


 事実私は、姉よりも多くの読書感想文賞を受賞し、去年のものは全国にまで入賞している。クラスの子も先生もたくさん褒めてくれる。姉ならば、私の文章を正当に評価してくれるだろう。


「いいよー、読んで」


 と、適当を装って言った。まあ、こんなサイトの馬鹿よりも、実際に小説家をしている姉の方が、見る眼はあるだろう。あるいは理解ができずに、適当な負け犬の言葉を吐くだろうか。いやいや、姉なら理解できるはずだ。何せ現役の作家だし、小説に関しては、姉は嘘を吐かない。


 そんな風に思って――姉の後ろ姿を見ていた。


 姉も私と同じで速読であるけれど、何か、読み方が違う。


 じっくりというか、ちゃんと読んでいるというか。


 三十篇の短編を読み終えたようで「ふー」と、両手をあげた。


 私は尋ねようとし――。


「ねえ、唯」


 と、言ってきた。


 いつもの口調とは違う、地に足が付いた言葉遣いに、少しだけ驚いた。


「な、なに、お姉」


 その次の言葉は、きっと私の小説の褒め言葉だろう。


 早く褒めてよ、私を。


「物語の最低条件って、何だか分かる?」


「え」


 しかし、姉から出てきた言葉は、全く予想していないそれだった。


「も――物語の最低条件? いや、感想を教えてよ」


「その前に、だよ」


 眼が本気になっていた。


 や、何をマジになってんのー、と笑えるような感じではない。


 スイッチが入ってしまったらしい。


 小説については、嘘を吐かないし、容赦はしない。


 そんな姉の覚悟が垣間見えた。


 下手に言い返しても無駄だということを、この十四年間で私は理解している。


「え、ええっと、物語であるために必要なこと――ってこと?」


「そう。というか、これがないと物語とは言えない、っていうたった一つの冴えない要素のこと。ゆっくり考えていいよ」


 これがないと物語とは言えない条件。


 何だろう。


 題名、筆者名? 


 いや、それが無くとも物語として成立しているものはある。


 出版社? 


 文章力?


 そんなトンチのようなものでもないだろう。


 登場人物? 


 いやいや、人物ではない物語だってちゃんとある。


 ならば、何だ。


 私は考えた。


 それが私の小説に足りないとでもいうのか。


 物語、読み手、そうか。

 自分の小説が、物語が何か悪いと考えることそのものが違っていたのだ。

 


 そうだ。


 物語の読み手の知性か。


 いくら素晴らしい物語を書いたところで、読む人が馬鹿であれば勝手に歪曲される、そして評価されずに埋もれていく、そういうことを、姉は言いたかったのだ。そうして私の物語を、褒めてくれるのだ。


 だから言った。


「物語の、読む側の知性、でしょ?」


 言葉が口から離れた後で、少し、妙な感じがした。


「……」


 あれ――これでいいのか、と。


 いやいや、私は間違ってはいない。


 姉はしばらく私を見つめた後で、続けた。


「違うよ。唯。それは、違う。あのね、覚えておいて」


 と、明瞭な口調で、姉は続けた。


「今の唯の物語には、それがない。いくら素敵な文章を使っても、上手い文を書いて人を感動させようとしても――それがなければ、意味はないんだよ。今の唯が書いているものは、物語ですらない。だからこそ、誰も評価してくれないんだよ。物語じゃないんだから」


「ちょ――ちょっと、言ってくれるじゃない」


 流石に私も、言われっぱなしではない。少なくとも、姉よりも良い文章を書いているはずだ。


「そこまで言われる筋合いはないよ。何? 書く人の愛情とか、登場人物への気持ちとか、作品へのリスペクトとか、そーゆー良く分かんないこと言うんでしょ? 込めたかどうかなんて分かるの? 結局好き嫌いの問題じゃん――お姉の書く文だって、ぼろぼろでダメダメじゃない。あんなの読む人の気が知れないんだけど。気持ち悪いオタクとかが読んでるんでしょ――」


「違うってば。ふうん、ああ、そっか、本当に分からないんだね、唯」


 その言い方に苛立った。


 他の分野ならまだいい。けれど文章を書く点においては、譲れない。この姉に好き放題、言わせたくはない。思わず手が出そうになって、我慢した。


「い――い、言わせておけば、好き勝手言ってくれるじゃん。現役作家だからっていい気になってるつもりかもしれないけどさ。じゃあ何? そこまでお姉が言う、物語の最低条件って、一体何!」


「それはね」


 

 終わっていること、だよ。



 たった一言だけだった。


 ややこしい指定条件や、こねくり回した難しい言葉なんて一つもない。


 終わっている――ただそれだけ。


 なのに、私は、何も言い返せなかった。


「どんな物語でも、エンドマークが打たれるでしょ。編集の人に言われたんだ。面白い小説を売るのは出版社の仕事で、面白い小説を書くのが作家の仕事だって。確かにそうだと思う。で唯う一つ付け加えるなら、作家には、その面白い小説を終わらせる責任がある、と思うの。続ける続けないは話合えばいいけど、終わらせないで投げ出すのは、違うと思う。終わらない物語なんてないでしょ。続編があったり、シリーズがあったりするけれど、本が終れば一旦終わる、よね。今の唯ちゃんの小説は、終わっていない。途切れている。最初だけぱっと書いて、飽きたら次のを書いてるんじゃないの」


 図星だった。


 図星だったからこそ、言い返せなかった。


 ゆっくりと、落ち着いて、それでいて重みのある声だった。


「別にいいよ、それでも。学校の読書感想文なんてたった原稿用紙五枚くらいでしょ。だけどさ、感想文と小説は違うんだって。筋があって、道があって、終わりがある。読む人の知能がどうとか言ってるみたいだったけど、三十作も書いて、そんなことも分からないの? いつまでもだらだら終わるかどうか分からない、とぎれとぎれの未完成品を見せて、誰が喜ぶって思うの。読者の心を揺らがせることばかりに執着しすぎて、何にも見えてないじゃない」


 姉の言葉が刺さる。


 本気で、姉は怒っているのだ。


「唯が馬鹿にしてるライトノベルだって、ちゃんと終わっている小説だよ? 文学を専門に学んだわけでもないのに良くあんな風に上から目線でコメントできるよね。文学部なんて役に立たないとか言ってるけれど。ちゃんとライトノベルを読んだことなんてないんでしょ。駄目なところをあげつらう目的で流し読みして、批判前提で読書してさ。そんな風に読んでる人が書いた小説なんて、面白いわけないよ。ずっと見て見ぬふりをしてきて、唯がいいならそれでいいって思ったけど、やっぱり、言うね」


 眼と眼が合った。


 姉の瞳に映る私は、泣きそうだった。


「小説を書いたって褒めてほしいみたいだけど、なんか色々と馬鹿にしたいみたいだけど、別に唯がどういう小説を書こうと批評するつもりもないけれど、でも――」


 姉は少しだけ言葉を止めて、そして続けた。


「せめて書き終えてから言え」

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