第8話 再会
工場での仕事が終わり帰宅後一息つくと、時々良太は自転車で本屋に通った。燃料費のかかる車は通勤時のみにして、普段の生活ではなるべく自転車で用を済ますようにしていたのだ。そうして、毎月読んでいる野菜栽培の雑誌を手に取って眺めている時だった。
「良太さん?」
後ろから声がかかった。振り返ると、そこには色白でストレートの髪が綺麗な見知らぬ女性が一人立っていた。
「私、陽子です。ほら、だいぶ前に田んぼの除草でお世話になった…、忘れちゃいました?」
良太がぽかんとしていると、ちょっと怒ったように頬を膨らませてその女性は言った。田んぼの雑草取りで知り合い、初めて顔を見たのが別れの日という、農業県らしい出会いから既に二年が過ぎていた。除草作業中、陽子の方は毎日良太の顔を見ているが、良太は最終日にほんの一瞬彼女の顔を見ただけ。記憶のピントが合うまでにしばしの時間を要した。
「良太さん、まだここにいたんだ」
陽子は一歩近づくとそう言った。
「うん、今は工場で働いているんだ」
「例の農家辞めたっていうから、東京に戻ったのかと思っていたわ」
「辞めたというか、首になったんだけどね」
良太は頭を掻きながら正直に言った。
「そうだったの!社長さんは辞めたって言ってたわよ」
「あの年はイナゴが凄くて収穫が少なかったから、これ以上雇っていられないって言われてさ」
苦笑しながら良太は言った。
「東京に戻った方が良かったんじゃないの?」
心配そうに陽子が言った。
「うん。それはそうなんだけど、やっぱり米作りはしたいんだよね。東京ではほとんど無理だからさ」
「棚田で美味しいお米を作りたいって言ってたこと?」
彼女は良太が棚田での米作りを目指していることを憶えていてくれた。
「そう」
自分の話を気に留めてくれていたのだと、少しうれしく感じながら良太が答えると、陽子は考えている様子で口元に手をもっていったまま黙ってしまった。良太にとって彼女の姿を見るのは二度目に過ぎなかった。あの時と同じか、それ以上に綺麗だなと普段着の陽子を見て良太は感じていた。
「じゃあね」
落ち着かない気分を隠したくて、良太は本を手に持ちレジに向かった。
「車で来たの?」
後ろから陽子が声をかけてきた。
「近いから自転車なんだよ」
良太が振り返って答えると、陽子は良太を追い越して足早に出口に向かいながらこう言った。
「ちょっとだけ時間を貸して。見せたいものがあるの」
書店から駐車場に出るとライトをパッシングする軽自動車があった。近寄ってみると陽子が乗っていた。
「後でまたここまで連れてくるから、乗って」
陽子は助手席のドアを中から開けると、良太の背丈に合わせて席を一番後ろまで下げた。断れる雰囲気ではなかったので、良太は服の埃を払ってから助手席に乗り込んだ。陽子は手慣れた感じで車を発進させて、国道に乗り入れた。マニュアル、四輪駆動の車だった。しばらく走ると、陽子は街灯の無い脇道に車を入れてヘッドライトをハイビームにした。そして、そのまま無言でアクセルを踏み続ける。良太は陽子の顔を見たい誘惑にかられたものの勇気が出ず、彼女が見つめるフロントガラスの向こうを同じように眺めていた。登り坂に入ってシートに背中が貼り付いた。舗装が荒くなり車が大きく揺れたにも関わらず、陽子はアクセルを緩めない。真暗な中でのドライブだ。良太は少し怖くなりドアの取手を左手で握った。完全に山道に入ったらしく、ついに舗装がなくなった。大きく揺れながら車は進む。時折、地面の草で車体の底が擦れる音がした。坂が急になり、陽子はマニュアルを一速に入れなおすと、気後れする様子もなく暗い山道を進んで行った。しばらく走ると、車が止まり、ギッというサイドブレーキの音を合図に陽子がドアを開けて外に出た。そのまま助手席に回ると窓ガラスをコツコツと叩く。
「外に出て見てみて」
懐中電灯を手に、窓の外で陽子は微笑んでいる。ドアを開けて足元を探るように外に出ると、良太は周囲を見渡した。暗がりの中だったものの、車のライトの灯りと陽子がかざす懐中電灯のおかげで何とか状況はわかった。目の前に段々と重なる田んぼが続いている。所々畦が崩れているものの、それは確かに棚田だった。今は使っていないらしく、雑草だらけなのが見てとれた。
「何故ここに棚田が…」
「もう遅いから細かいことは今度説明する。使うの、使わないの?」
良太のとぼけた質問に陽子はいらいらするように言った。
「やりたい。すぐ使えるようにできるかどうかはわからないけれど、休みの日は毎日通って整備するよ。陽子さん、地主さんを紹介してくれないか?」
思わず陽子の手を取って良太は返事をした。
「わかった。次の休みはいつなの?」
驚いたように手を引っ込めながら陽子は言った。
「週末は普通に休めるよ」
「じゃあ、今度の土曜日にあの本屋さんで待ち合わせよ。朝の10時に来てくれる?」
「わかった」
断る理由などあるわけがない。良太は大きく頷いた。帰り道、フロントガラスの向こうの暗闇をぼんやり見つめながら、良太は今後の事を考えていた。棚田で米作りができるかもしれない。良太の気持ちは希望に満ちていた。帰りの車中、詳しいことを訊くチャンスを逃してしまったことに気が付いたのは、アパートの部屋の電気を点けた時だった。
土曜日の朝、予め約束した通り、良太は車で書店に行った。良太の到着に少し遅れて、陽子が駐車場に着いた。
「ついて来て」
挨拶もそこそこに陽子はアクセルを踏んだ。良太は慌てて車に飛び乗ると、陽子の後ろをついていった。この間の道を陽子の車が進んで行く。良太は離されないようにアクセルを強めに踏んだ。今回は昼間なので周囲の景色が良く見えた。前方に小高い山が見える。棚田の山だ。周囲に邪魔するもののない南斜面に棚田が並んでいるのが見えて、良太の心は踊った。坂道に入ってすぐ、古民家様の家の庭に陽子は車を入れた。広い庭には車を入れる車庫もあり、陽子の車の他に乗用車、軽自動車、軽トラック、それに、トラクターがそれぞれ一台ずつ停められていた。他にも大きな倉庫らしき建物も備わっている。良太は邪魔にならない場所を選んで車を停めると、家の玄関前で待つ陽子の元に駆け寄った。
「大地主さんなの?」
良太が尋ねると陽子は少し不思議そうな顔をした。
「田舎の農家ってどこもこんな感じよ」
答えながら陽子は、ブザーを押すことも無く無遠慮に引き戸を開けた。そして、中に入ると良太を手招いた。そこは昔ながらの土間だった。誰と話しをするのかと、どぎまぎしている良太の顔をちらっと見ると、陽子は中に向かって大声を上げた。
「お父さん、良太さん来たわよ」
驚く良太を尻目に陽子は靴を脱ぎ、居間に上がって行った。階段を降りるミシミシという音がしたかと思うと、奥の障子が開いた。そこに居たのは除草隊を率いていた親方だった。
「おう、久しぶり」
親方はそう言うと大きな座卓に着き、良太を手招いた。慌てて居間に上がると、良太は靴を脱ぎ捨てたままであることに気が付いて、深呼吸しながら靴の踵を揃えて並べた。
「ご無沙汰しております」
頭を下げながら勧められるままに座卓に近づくと、良太は微かに首を陽子の方に傾け、小さな声で訊いた。
「お父さんだったの?」
そこには今までで一番明るい陽子の笑顔があった。
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