第7話 失業

 お盆を過ぎた頃から社長の機嫌が悪くなった。イナゴが大量に発生したのだ。

「今年は雪がいつまでも残っていたから、田植えの準備が遅れたものな」

良太は黙って社長の話を聞くことしかできなかった。田んぼに水を入れてから田植えまでの日数が短かったため、イナゴの卵を集めて土中に埋める作業が甘くなってしまったらしい。殺虫剤には残留期間があるため、稲刈りまでひと月程度しかない今の時期となっては散布することはできない。それに有機認証米や無農薬米の田んぼを多く抱えているこの農業法人では、農薬散布できる田んぼそもののがそれほど多くはない。そもそも既に成虫になってしまったイナゴには薬が効き辛いという。良太はもちろん、長年米作りをしている社長にしても、稲を食い散らしながら飛び回るイナゴをただ見ていることしかできなかった。

「すみませーん、イナゴ獲らせてもらっても良いですか?」

佇んでいる良太に背中から声がかかった。振り返ると観光客らしき老夫婦の笑顔があった。

「どうぞどうぞ、どれだけ獲ってくださっても大丈夫ですよ」

良太は笑って答えた。

「佃煮にしたいの。でもペットボトル二つあれば十分だわ」

嬉しそうに奥さんが言う。

「こんなにイナゴがいるなんて、宝の山ですね」

ご主人も笑っている。

「いやー、米の収量落ちますからね」

苦笑いしながら良太は答えた。

 秋になり、稲刈りと脱穀、乾燥、籾摺り、袋詰め、出荷の作業が息をつく暇もなく通り過ぎて行った。イナゴの被害が予想以上に大きく、結局、良太が務める農業法人の米収穫量は平年の9割ほどとなってしまった。惨憺たる結果に、社長の態度は不機嫌そのものだった。

 米の出荷にまつわる仕事が大方終わったその日、良太は一人乾燥機の拭き掃除をしていた。米の出荷が終わってがらんどうとなった建物の中は、もみ殻や米ぬか等の細かい塵が薄く積もっていた。日本海側北部のこの地域は、既に秋の終わりを迎えていた。東京では考えられないほどの寒さが、足元から忍び寄ってくる。ふいに社長が入ってきて言った。

「良太、明日から来なくていいぞ」

「は?」

驚いて良太が問い返すと、社長は視線をそらした。

「米の収量少なかったから、冬の間、おめえに払う金なんてねーもの(お前に払う給料など無いのだ)」

それだけ言うと、持っていた封筒を良太に差し出して、社長は足早に立ち去った。良太は茫然と立ち尽くすしかなかった。ただでさえ底冷えのする中、背筋を氷のような冷たい感覚が走った。これからどうすれば良いのだろう。真白になった頭を振って、何か考えようとしたその時だった。

『帰ってはだめ』

良太は誰かの声を聞いたような気がした。だが、いくら周囲を見回しても薄暗い建物の中には、猫の子一匹いるわけはなかった。しばらくして、良太は手に持っていた封筒に気が付いた。中を覗いてみる。なんのことはない。今日までの給料が入っているだけだった。良太は深く息をはいた。

 農業法人を首になったものの、良太は東京には帰らなかった。ここまで来たのだから田んぼで米を作りたい。その思いが良太の心を占めていたのだった。良太は工場での仕事を見つけて働きだした。工場勤務とは言え、田舎での給料は東京で暮らしていた頃の半分ほどでしかなかった。しかも、バスや電車があまり走っておらず、料金も高いので車に頼らざるをえない。車の維持費と燃料代という、東京では必要の無かった出費が生活を圧迫した。食べる物についても、スーパーに並ぶ食材は東京の下町に比べるとやや高く感じた。買い物できる場所がそもそも少ないため、競争原理が働かないのかもしれない。時々財布を覗いては、良太は陰鬱な気分になるのだった。とは言え、とりあえず生活の心配がなくなったことで、良太は農業についての学習を再開した。基本をきちっと学びたいと、時間を見つけては農業関係の本を読み漁った。その上で、米作りを一から学ぶべく、県が主催する一般向け農業学習会等に積極的に参加した。行く先々で出会った人達と知り合いになり、それが縁で田植えの手伝いを頼まれたりと、米作りからつかず離れずの生活を送り続けることになった。そんな暮らしの中で、良太は当初の気持ちを取り戻していった。それは「美味い米を作りたい」ということだった。そのために良太が目指すこと。それは「朝から夕方までまるっと日光を浴びることのできる南斜面の棚田で、綺麗な水を使って米を作る」という、やはり最初に直感した方法だった。そのこと一点に良太の思いは集約されていった。そして、田舎の山は思っていたより安いということもわかった。

「いっそのこと山を買って、自分で一から棚田を造るか」

良太はそんなことを考えもした。しかし、ここには障害があった。どうも新しく田んぼを造ることは、法律で制限されているらしいのだ。その上、野生動物に人が襲われて毎年何人もの人が亡くなっているという、田舎特有の事情もある。山奥でこっそり田んぼを造るのは危険が大き過ぎるのだ。そうなると、人里近い場所に元々ある田んぼを手に入れるしかない。しかし、余所者の良太に山ごと田んぼを売ってくれる人など、ここにはいそうになかった。これはとても難しい問題だった。行き詰まりを感じて良太は悶えた。全ては相手あってのことだ。自分自身がどれほど頑張ろうとも、今この時にやれることが無い。若い良太にとって辛い時間が流れていた。

 田んぼについては運を天に任せるしかない。そう気が付いた良太は、一旦別のことに視点を移すことにした。水について考え始めたのだ。綺麗な水って何だろう。湧き水に毒素が混じっていること等は、世界で考えれば当たり前のことだ。もちろん日本でも、鉱山から流れ出る水で土地が汚染されるという過去の歴史がある。天然の湧き水でさえあれば綺麗だと感じるのは、大きな間違いなのかもしれない。とすると、誰が見ても一目で綺麗な水だとわかる何か、それが必要だ。考えつくした末、良太が思いついたのが蛍だった。

「夏になると蛍の舞う棚田」

良太の目標が決まった。調べてみると、蛍の幼虫を販売している業者があることがわかった。早速、幼虫を取り寄せると、良太は水槽を買って飼育を始めた。蛍の幼虫を飼うということは、餌となるカワニナやヒメタニシの飼育をするということでもある。水質チェック、温度管理、餌やりが良太の日課となり、そうして時が流れていった。

 夏の夜、電灯の消えた部屋の中を糸のような線を描く蛍の光が舞っていた。眺める良太の目には段をなす棚田の風景が浮かび、耳には水路を流れる水のせせらぎが届いていた。

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