第4話 田んぼ

 良太が引越したのはゴールデンウィークの末だった。移住初日は日曜日だったが、良太は勤め先となる農業法人に到着の挨拶に向かった。田んぼ35町(ヘクタール)で米を栽培している、近隣農家が主要メンバーの農事組合法人だった。一般住宅で言えば三階建て程度の高さのある真四角な建物入り口前に立ち、良太はアルミ製扉をノックした。米を乾燥するための建物兼事務所と教わっていた。中から返事が聞こえたので、扉を開く。

「初めまして。到着しましたので、ご挨拶に参りました」

「おお、お前が良太か。早速だけど田んぼ耕してけれ。作業が遅れているからよ」

良太の挨拶に対して、開口一番社長が言ったのはそのセリフだった。雪解けがいつもより遅かったために田んぼの整備が遅れていて、今のままだと五月中旬から始める予定の田植えに間に合わないとのことだった。

「大特(大型特殊自動車免許)取ったんだべ?やれるやれる」

社長は一番古そうなトラクターの所に良太を呼んで、エンジンをかけると操作方法の説明をした。と言っても、ギアの切り替えと土を耕すロータリーの上げ下げだけのごく簡単なものだ。

「いいか、ロータリー下げたままバックするなよ。あと、大きく曲がる時もロータリーは上げれ。壊れるからな」

良太はおっかなびっくりトラクターの座席に座った。

「ひっくり返ると首の骨折って死ぬから無理に曲がるなや。じゃあ田んぼこっちだからついて来いや」

社長が歩きだしたので、良太は慌ててクラッチを繋いだ。ドンと音がして身体全体に衝撃が伝わった。ゆっくりと公道に乗り出す。かつて体験したことの無い激しい振動だった。ディーゼルエンジンの音が背中から聞こえてくる。田んぼの脇に着くと、水路を渡る時だけ親方が運転を代わってくれた。良太の背中は既に大量に噴きだした汗で濡れていた。

「広いな」

良太は田んぼを見て呟いた。一般的な田んぼの最小単位は1反(約10アール)なのだけれど、大きな農家は田んぼを区切っている畦を取り除き、1町(約1ヘクタール)にまとめている。良太が案内された田んぼも1町の広さがあった。

「いろんな耕し方があるだども、先ずは行き帰り往復しながら端まで耕して、最後に周りを一周して帰ってこいや」

そう言うと、社長は自身の仕事に戻って行った。

 良太はトラクターを運転して最初の一往復に乗り出した。結構真直ぐ進むのが難しく。端まで進んで振り返ると線はぐにゃぐにゃと曲がっていた。ふと、良太は少年の頃のことを思い出した。野球で白線を引く時に、遠くの目標を見て引いて行くと真直ぐ引けるというものだった。曲がったままだと恥ずかしいので同じコースをとって返し、遠くに目標を置いて進んでみた。今度はうまくいった。隣の列に移る。進む。先に耕したところと今度の間に所々耕せない部分ができてしまった。

「もう少し多めに重ねないとだめだな」

位置に着く。ロータリーを降ろす。ギアを繋ぐ。遠くを見て真直ぐ進む。端に到着したらロータリーを上げる。方向転換する。最後にバックで畦近くまで下がる。ロータリーを降ろす。進む。試行錯誤しながら、良太は田んぼを耕していった。日暮れ間近まで頑張ったものの、田んぼ1枚を耕し終わることができず、3分の2がせいぜいだった。社長が現れて田んぼを見ると言った。

「ありゃー終わってねえんだか、仕方ねーな。まあ、最初はこんなもんかもしれねーな」

良太は初めてのトラクター運転に心底疲れきっており、そんな社長の態度に怒りを覚える気力さえなかった。

 翌月曜日は県庁に挨拶に行かなければならなかった。農業部長から激励されることとなったが、良太は田んぼのことが気になって半分上の空だった。せっかくのトラクターに乗る機会を逃したくなかったのだ。しかし、火曜日に田んぼに行くと耕耘作業は全て終わっていた。

「水口(みなぐち)を綺麗にしてけれ。掃除したら水路から水を入れるんだぞ。田んぼ全部な」

親方の指令に具体的な説明はなかった。

「水口ってなんですか?」

良太は問い返した。

「田んぼの水を出し入れする所に決まってんだろう」

親方はあきれた顔で返事をした。その後、前年からここで働いているという敦さんを紹介されて、一緒に軽トラックで1枚1枚田んぼを廻って行った。水口を掃除して水路から水を引く作業を延々続ける。田舎の道は目標が乏しく、良太はすぐに方向感覚がなくなった。

「あ、そこはうちの田んぼじゃねえっすよ」

敦さんから声がかかる。

「敦さん、似たような田んぼばかりなのに良くわかりますね」

良太が言うと敦さんは笑いながら返事をした。

「一年やってるからね。しかし良太さん、ここの親方は気性が荒いことで有名なのによく来たね」

「え、そうなんですか?」

良太が驚いて返事をすると、敦さんは笑いながら続きを話した。

「あんまり人使いが荒いから近所で雇えなくなって、仕方なく余所者連れてくることになったって。この辺りじゃ良太さんの話題でもちきりだよ」

「…」

衝撃的な話に、良太は返事ができないほど動揺していた。

「あはは、田植え終わったら俺も辞めるんで、良太さん、あとよろしく頼むっすよ」

敦さんは笑いながら言い、続けてアドバイスをしてくれた。

「他所の仕事も請け負っているから田んぼは二百枚くらいあるっす。全部覚えないと仕事にならないから、田植えが終わるまでに憶えた方が良いっすよ。あっちの山の近くまで飛び飛びであるから、一度行ったら憶えておかないと怒られるっすから」

敦さんは遠くの方を指さして言った。どう見ても同じような形にしか見えない千を超えると思しき田んぼが眼前に広がっていた。遠くのものは霞んでいて、形すらはっきりとしない。良太はため息をつくしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る