強い人間は正しいのか

小狸

短編

「どうして人は、人を非難するのでしょう」


 質問というより、それは悲願の思いに近かったように思う。


 いや、その頃の僕のことを思えば、それはやむを得ないのかも知れない。


 小説家として生計を立て始めた頃、ネット上で非難囂々の嵐に巻き込まれたのだ。


 炎上、とまではいかないにしても――人格否定がこれでもかというくらいに並んだ。


 最大瞬間風速だけで人の肉を削ぎ落すようなそれは、大量の非難囂々罵詈雑言悪口讒謗で、僕の精神を蝕んだ。


「どうしてでしょうか。たった一つの記事が掲載されただけで、どうしてここまで怒ることができるんでしょう。こうして怒っている人達は、そうして怒れる程に、潔白なのでしょうか、良い人なんでしょうか」


 当時の僕はまだ高校生だった。小説家としてデビューし、二年目。やっと花が開きかけたという時期に、さる記事により、僕の小説の中の表現が人権無視しているとして問題視されたのだ。瞬く間にその記事は拡散され、多くの抗議文書が届くようになったらしい。編集部はうまく鎮火したつもりのようだけれど、ツイッターなどはもう酷い有様だった。


「まあ――気にしなければいいんじゃないかな、と言っても、君は気にしてしまうよねえ」


 と、先生は言う。


 僕が先生と呼べる、ただ一人の男性。


 中学の時、親に無理矢理精神科に連れて行かれた時の主治医の先生である。


 僕がどう死のうか悩んでいた時に、生き方を教えてくれた方だった。


「大概の輩は、君の小説を読んですらいない。読めば、この記事が酷い事実誤認だと分かるだろうにね、とんだ斜め読みだよ」


 そうなのだ――と、筆者たる僕が言っても、あまり説得力はないかもしれない。


 ただ記事の内容は、あまりにお粗末だった。


 担当編集の内海さんも「中学生で小説家となった君に対して、嫉妬してるんだよ、この書き込みをした人は」と唾棄していた程である。

「しかし、だからこそ――大衆の共感を得たんだろうね。小説と違って、人が摂取しやすい、ファーストフードのような文が横行している。流し見で読めて、印象に残りやすいスラングな口調、勝手な小説の引用、いやはや困ったものだねえ」


 笑みを浮かべながら、いつも通りに話す。


 外からみればただの陽気な老人にしか見えない。


 カウンセラー、と言うと、しかし本人は否定する。確かに先生が行った手法は、あまりに強引ではあった。学校崩壊を起こしていたあの学校を廃校にしてしまったのだから。そうすることでしか、あの場を解決する方法はなかった。


 お蔭で僕はきちんと義務教育を終えられ、無事高校に進学できた。


 他の生徒のその後は知らない。


 ぼくの学年の高校進学率は一割も満たなかったと噂されたらしいけれど、僕には関係ない話だった。卒業式にも出ていない。


「ファーストフード、ですか」


「そう。さっと書ける、伏線も辞書もいらない。誰にでも書けて、誰にでも読める。奇しくも今の時代は、効率重視だからねえ。片手間でさっと摂取できる文章が、ニーズに合っているということだ、はは。君の書く小説とは真逆だね」


「……やはり僕の小説は、駄目なのでしょうか」


「今のは冗談だよ。どちらが良いという話ではない。ただね、過剰摂取は毒になるという話だ。安価で安易な言葉を大量に取り続ければ、中毒になるのだよ」


「中毒ですか」


「そう。だからこそ、読まれるのさ」


 言って、先生は珈琲を飲んだ。その笑みを零すことのない、不思議な雰囲気の先生だけれど、珈琲を飲むときに限り、とても不味そうは表情をする。


「でも――いえ、どうして、その、どうして人は、人のことをこんなに非難するのでしょうか」


 そう、言葉がどうだとは言え、僕の質問の核はそこなのだ。先生の返答は、少々その意図とは迂遠の場所にある。


「皆、自分のことで精いっぱいじゃないですか。両親とはもう二年くらいあっていませんけれど、あの人達も、いつも言っていました。『辛い』『大変』『だから長男のあなたに、私たち親が負荷をかけるのも仕方がない』『我慢しなさい』『皆辛いんだから』って。自分のことでそこまで手一杯なのに、どうしてこういう時だけ、他人を非難するんですか」


「ふむ」


「更にもう一つ、聞いていただけるのなら、どうして自分のことを棚に上げて、そこまでのことを言えるのか、ということです。人って元々最悪じゃないですか。自分のことしか考えていなくって、他人を騙すことに何の躊躇もなく、たとえ相手が死んでしまったとしても知らぬ素振りをし、自分の攻撃で相手が傷つけば相手の所為、自己責任と言って謝りもしない


 嫌で嫌で嫌な生き物じゃないですか。罪深い生き物じゃないですか。なのにどうして、そんな自分を置いておいて、人を非難できるんですか。潔白でもない癖に、真面目でもない癖に、隠れてずるばかりしている癖に、バレなければいいって思っている癖に、頑張っている人を遠くから指を差して笑っているだけの癖に!」


「篠原くん」


 先生はそう言って、口元の前で人差し指を立てた。


 僕は自分の心拍数が上がっていて、汗をかいていることに気付いた。先生曰く、幼い頃からの徹底的な抑圧が原因だという。言葉が止まらない――一つの感情に、頭が一瞬で満たされ、戻れなくなってしまう、のだそうだ。


「……すいません、つい」


「いや、良い。そこまで言えるようになったことは、むしろ成長だろうさ。二年前の君は、こんなこと絶対に話せなかったのだから」


 にこにことだけして、笑って、相手に都合のいいことしか言わない、勝手に空気を読んで場の調和だけに心血を注ぎ、当たり前のように自分を犠牲にする。


 今から考えれば、あの頃の僕は人間ではなかったのかもしれない。


「こういう人達はね、そうやって己の中の狂暴性を清算しているのだよ。人間生活をしていれば、誰しも暴力性を有するものだ。獣に野生があるようにね。一般生活ではそれは発散することはできないだろう。特に今の時代は、世の中から求められる『普通』のレベルは各段に上がっているからね」


 それは、確かに僕も実感していることだった。


 高校生の僕でさえうっすら感じているのだから、大人はより顕著なのだろう。


 毎日ちゃんと仕事に行く。毎日ちゃんと朝起きる。毎日朝ごはんを食べる。毎日身だしなみを整える。毎日笑顔を振りまく。毎日他人に迷惑が掛からないように気を遣う。


 毎日生きる。


 一度壊れかけた者としては、それがどれだけ大変なのか、骨身に沁みて理解している――つもりだ。


「無論、日常生活以外のところで発散すればいい。娯楽であったり、好きなことであったり、適度な刺激でどうにかなるからね。ただ――そうして発散することのできない、行き場のないものをずっと溜め続けている人間、というのもいるわけだ。私が思うにね、ネット上に溢れる、批判――ではなく非難は、そういうものが遠因になっていると思うわけだ」


「人の、暴力性の現れ、ってことですか」


「そう。人を殴ったら証拠が残るだろう。人を殺したら罪に問われる。だったら、見ず知らずの、顔も知らない第三者を、言葉で殴ればいい。相手の顔が見えないから、罪悪感の欠片もないしね。エゴサ―チ、と言うのだったか? いざという時は相手が調べたのが悪い、相手のメンタルが弱いことが悪い、と言ってしまえばいい。相手が言葉を返す前に、畳みかければいい。論じる、批評するなんて言うけどね、実際暴力のようなものだよ」


「暴力を、許容しているんですか」


「ああ。苦しむ相手の顔が見えないなら、いくら殴ったって自分の心は痛まないからね。だから好きなことを言えるんだよ、彼らは」


「彼ら……」


「一般人だよ」


 皮肉を込めて、先生は言った。


 僕も小説の中で時々触れる。


 一番怖いのは、一般人による数の暴力だと。


 何をするか分からず、すぐに煽動され、その場の雰囲気で動き、誰も責任を取ろうとしない、無法地帯の集団。


「……でも――やっぱり僕は、駄目、なんでしょうか」


「どうしてそう思う」


「ネットでも、やっぱり意見を見るんです。人格否定の言葉を見て――心が折れるのが悪いって、心が弱いのが悪いって。そう言われて辟易もしますけれど、でも納得もするんですよ。心がもっと強ければ――こんな風に落ち込むこともないのにって」


「そうかな」


 先生は、静かにそう返した。


 何かを言い含めるように、手で口元を覆う。


 探偵か何かのように見えた。仕草がいちいち格好良い。


「……違うんですか」


「さてね。心が強かったからと言って、何も感じないわけではない。人の言葉に鈍くなるということだ。どんな言葉にも折れない。どんな言葉の槍でも貫かれない――だからって、無傷でいる訳ではないだろう? 人はそこまで簡単にはできていない。つまりね、強い人間は傷つき続けるという選択をすることになる。強いからこそ、逃げられない。それはとても窮屈な生き方だと、私は思うよ」


「逃げても――いいんですか」


「逃げてもいい。逃げは、悪いことではない。自分の弱さを自覚し、そしてそれに適応しようとする立派な作用じゃないか。ならば心が折れ、死に、人間的な生活が送れなくなるまで傷つきながら生き続けるのかい? それは人としての強さなのかい? それが、正しい人の在り方だと、思っているのかい」


 眼から鱗であった。


「世の中にある『普通』を満たしている人間などごく少数だよ。それでも人は、自分が『普通』だと信じて生きている。何故なら『普通』から外れると叩かれるからだ。怖くて、怯えて、自分を抑圧している――だからその抑圧された『普通』ではない別の何かを誰かに向けないと気が済まない」


「……」


「君は小説を書く。世の中は非難をする。それで君の心が折れ、筆を折るのならそれでもいい。強くあれと、私は言えるような立場ではないからね。ただ、これだけは言える。。絶対にだ」


 先生の、そこまで直線的な台詞は、久しぶりに聞いたような気がした。


 初めてだったかもしれない。


 その後、少しだけ先生と話して、僕は家に帰った。

 

 一人暮らしの家である。

 

 お米を研いで炊飯器にスイッチを付け、しばらくぼうっとしていた。。

 

 そして久しぶりに、パソコンへと向かい合った。


 小説を書こうと、僕は思った。



(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

強い人間は正しいのか 小狸 @segen_gen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ