第41話 虐待

「みんなは夏休みの湖のことを覚えている?ベルティナが泳げなかったこと」


「ああ、もちろん、覚えているよ」 


 エリオがまるで自分も痛みを感じているように顔を歪めた。実はエリオにとってはまだ気にしている事案であった。


「ベルティナは男爵家の池に何度も何度も落とされて、顔を沈めれたこともあるのですって」


「それって、人殺しじゃないか……」


 イルミネは目を見開いているがどこにも定まっていない。

 イルミネの頭には、パニックが収まらないベルティナを横抱きにするエリオの背中が鮮明に浮かんでいた。『あの時、俺も側にいれば…』口に出したことはないが、実はイルミネにとっても、まだ気にしている事案だったのだ。


「ま、まさか、そんなことするやつが? そんなやつが親なのか?」


 エリオは無意識に眉根をギュッと寄せていた。


「ええそうよ。ベルティナは実は今でも顔が洗えないんですって。毎日、タオルで拭いているそうよ。手で汲んだ水を顔に近づけることができないそうなの。その手が母親や姉の手に見えるのですって」


「え? それって、母親も、姉も、やっていたってこと?」


 俯いていたイルミネがあまりの驚きにセリナージェの顔を見た。


「父親、母親、兄、姉、使用人。十一歳のベルティナより年上の者……すべてから、よ」


「信じられん」


 クレメンティは拳を握りしめていた。


「それで……あいつは何をしに来たんだ」


 エリオの声は震え、目は血走り、拳は真っ白になるほど、強く握られていた。


「私の両親がベルティナをあの家に戻したくないからって、ベルティナを我が家の養子にしたのよ。成人の誕生日の当日に書類を提出するって言っていたから、もう受理されたはずよ。

恐らく、確認の手紙がタビアーノ家に届いたのだと思うわ。あの人、ベルティナを裏切り者って言ってたから」


 エリオが小さく息を吐いた。


「そうか。ベルティナは今、ティエポロ侯爵家の者になって守られていたのか。よかった……。

それにしても勝手な男だ。いや、勝手な家族か? ベルティナを金だとでも思っているのか?」


「ええ。私の両親もベルティナの扱いがそうされることを恐れていたわ。だからこその、養子縁組なの」


「なるほどね。奴隷扱いされることが、ティエポロ侯爵殿には見えていたってことか」


 イルミネも小さく息を吐いた。少しだけホッとしたようだ。


「もしかしたら、私たち、数日、学園をおやすみするかもしれないわ。でも、心配しないでね」


「ああ、その方がいいだろう。ベルティナのそばにいてやった方がいい」


 クレメンティは励ますようにセリナージェの肩に手を置いた。


「セリナ。よろしく頼む」


 エリオがセリナージェに頭を下げる。


「さっき、言ったでしょう。ベルティナは、私のお姉様になったのよ。任せておいてっ!

じゃあ、もう、ベルティナのところに戻るわね。いつ目が覚めるともわからないし」


〰️ 〰️ 〰️


 三人はエリオの部屋にいた。


「イル。夏休みの執事長たちの話を覚えているか?」


「何の話だ?」


 イルミネがクレメンティに説明した。


「あの時、それぞれやったことや言ったことが、十七歳のベルティナではなく、十一歳のベルティナだと話されて、違和感があったんだ」


 エリオはあの時の違和感を思い出すように目を閉じた。


「確かにね、十一歳では、メイドや執事や、さらに庭師や料理人まで。その存在の大切さに気がつくのは早すぎる」


 イルミネは、自分の十一歳を思い返してみた。悪ガキで使用人たちに迷惑をかけていた自分と想像のベルティナを比べていた。


「それまで受けたことのないことだったから、シーツの匂いに喜べたってことか……」


 クレメンティは幼い頃からいい子だった。しかし、流石にシーツの匂いに喜んだことなどない。


「ああ、食事も、な……」


 エリオは肋骨が見えるほど痩せている少女を想像しただけで、眉根が寄っていく。


「虐待か……。かなり壮絶だったのかもしれないね。そして、侯爵家の使用人たちはそれを知っている。ベルティナが使用人たちの仕事を喜ぶ理由を知っているから、泣いていたのかな……」


 イルミネはティエポロ侯爵邸の使用人たちを思い出して、そしてベルティナの受けていた暴力を想像して悲しくなった。


「それでも、今のベルティナはそれを糧に優しく逞しくなってる!」


 クレメンティは強く主張した。


「そうだな。今のベルティナがいるのは昔のベルティナがいるからだ。

でも、だからといって、やっていた奴らは許せないけど、ね」


 エリオは頭の中のタビアーノ男爵に冷たい視線をぶつけていた。

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