第8話 誓い

 ルイがカイルと出会う前、ルイが日常の中で目にしたことのある動物は、やせ細った犬猫や残飯をついばむ野鳥くらいのものだった。

 だがルイには、それらを見て可愛いなどのなにか感情が湧いたことはなかった。

 当時のルイは、自分の空腹をどうやって解消するか、それしか考えられなかったからだ。

 今は、朝、昼、夜、三食栄養のある温かい食事をカイルと一緒に採っている。

 カイルは神であり、不老不死の肉体を持っている。本来、食事を採る必要はない。

 しかし、だからと言って飲まず食わずでいるとハウスキーパーの近隣の主婦達に、変な者を見る目で見られてしまう。

 主婦達の情報拡散能力は凄まじいのだ。瞬く間に近隣から街中に噂話が知れ渡る。

 カイルは経験上、それをよく知っていた。

 そういった理由から、カイルは必要はなくとも食事を採っているのだ。

「食事は、一人より二人の方がいい」

 テーブルにつくルイの真横の席に座り、その様子を見守りながらカイルは一緒に食事をとった。

 食材やスパイスの名前、食器やカラトリーのこと等をルイに教えたかったからだ。

「カイルさん、そんなに話しかけてはルイ君が落ち着いて食べられないのでは?」

 ハウスキーパーの一人が、そんな二人の様子を見てくすくすと笑った。

 そんな和やかな食卓を数回重ね、ルイはしみじみと感じていた。

 空腹や寒さ、暴力に怯えずに過ごせることが、これ程までに安心できるものなのかと。

 ルイは毎晩、ベッドでも同じように考えていた。

 固くて冷たい地面ではなく、ふかふかの柔らかい、清潔な寝床。

 あたたかい……

 ルイは心のどこかで少し後ろめたさを感じながら、それでも暖かな寝床にすぐに眠りに落ちる。

 良質な睡眠は、健やかな成長には欠かせない要素だ。

 ルイの顔の色艷は、カイルと出会う前とは明らかに違っていた。


 書店で図鑑を買った翌日、二人は路面電車に乗って動物園に向かった。

「ルイ、昨日見た図鑑の動物の名を覚えているかい?」

 ルイは初めて乗る路面電車に身を固くしていたが、カイルからの問にハッとし、うーんと考え込んだ。

「えっと……ライオンでしょ、トラにゾウ、ウサギ……」

 ルイは懸命に昨日見た図鑑の動物を思い出し、その名を口にした。

「うん、すごい! よく覚えているね!」

 カイルはにこにこと笑ってルイの頭を優しく撫でる。

 艷やかでまっすぐな、ルイの黒い短髪がサワリと音を立てた。

 ……やはり、あの娘を思い出すな……

 カイルはルイに穏やかな口調で話しかけながら、水色のワンピースを翻す魔王の娘を脳裏に描く。

「……ライオン、いるかな?」

 ルイはそわそわしながら、隣のカイルを見上げた。

「……いるといいね……」

 カイルはにこりと微笑んで頷く。

 路面電車に揺られること一時間、二人は街にある動物園にたどり着いた。

「よし、着いたぞ!」

 園内は、休日ではない為かさほど混雑していなかった。

 カイルはチケット売り場で入場料を払い、パンフレットとチケットを二部受け取る。

「はい、君の分だよ」

 ルイはカイルからそれらを受け取り、まじまじと見つめた。

 それはルイにとってなにか特別なもののように思えた。単なる園内の地図が描かれた紙きれではない。

 ルイは手にしたチケットを、そっと入口に立つ係員に見せた。

 係員の初老の男は丁寧にルイからチケットを受け取ると、にこにこと笑ってルイにチケットの半券を渡す。

「行ってらっしゃい」

 ルイはチケットの半券を手にし、少し緊張した面持ちで頷いた。

「ありがとう、行ってきます」

 カイルは初老の係員ににっこりと微笑みかける。

 カイルはルイと手をつなぎ、順路を回った。

 大きな嘴と体を持つ鳥、色鮮やかな翼を持つ小さな鳥。様々な体の特徴を持つ数種類の猿。犬に似ているけれど、違う獣。

 一つ一つの檻の前で、ルイはじっと立ち止まり中の動物達をつぶさに見つめた。

「わあ……」

 そんなルイが一際大きな感嘆の声を上げたのは、大きな体に長い鼻を持つ、ゾウを見てのことだった。

「……大きい……」

 ぽかんと口を開けるルイの体を、カイルはひょいと抱き上げる。

「わあっ!」

「ルイ、高いところから見るとまた違ったように見えるから、よく見てごらん!」

 長身のカイルに肩車され、慌てるルイにカイルはゾウを見てごらん、と指し示す。

「う、うん……」

 必死にカイルの頭にしがみつきながら、ルイは再びゾウを見た。

「……本当だ……さっきと違って見える……」

 ルイは息を呑んだ。

 先ほどは正面しか見えなかったゾウが、今は体全体が見える。

「まだまだ軽いなあ……」

 肩に担いだルイの細い足を掴みながら、カイルは目を細めた。

「……これから沢山食べさせて、沢山トレーニングさせて……筋肉量増やしていけば体重も増えるだろう……あとは……」

 ぶつぶつと今後の計画を口にするカイルに、瞳を輝かせている当のルイはまったく気がついていない。

 カイルは口元ににっこりと笑みを刻んだ。

「よし! ルイ、次行くよ!」

「わあ! カイルッ、降ろして!」

 ルイは急に動き始めるカイルの頭にひしっとしがみついて叫ぶ。

 しかしその要望には応えず、カイルは楽しそうに笑いながら歩き続けたのだった。


「楽しかったねえ!」

 園内を一周し、二人は休憩しようと売店のベンチに腰掛けた。

「なにか飲み物を買ってくるから、ここで待っててね」

 カイルは、ベンチに腰掛け疲れたように肩を落とすルイに笑いかける。

「うん、ありがとう」

 ルイはぼんやりと呟き、深いため息を吐いた。

「……すごかったなぁ……」

 ルイはぼんやりと宙を眺める。

 怒涛のごとくルイの頭の中に流れ込んだ情報は、色鮮やかにルイの脳を疲れさせた。

「……ゾウの鼻……ほんとに長かった……図鑑の絵は、本当なんだ……」

 ルイが痺れる感情を持て余していると、ふと一組の親子連れの姿が視界に入ってくる。

 その瞬間、さあっとルイの体から血の気が引いた。

 目を見開くルイの視界の中で、母親と思しき女性が小さな男の子の手を引き、穏やかな笑顔でなにか話しかける。

 まるでその周りの空気だけが、ゆっくりと時が流れているかのようだった。

 暗く淀んでいく意識を引きずりながら辺りを見回してみると、数組の母子が歩いている。

 ……今まで気づかなかった……カイルが、僕の傍にいてくれたからだ……

「お待たせ!」

 盆に飲み物と軽食を載せたカイルが、ルイの元へ戻ってきた。

「ルイ?」

 カイルはすぐにルイの異変に気がついた。

 ルイは無言のまま、思いつめた表情で俯いている。

 カイルは真顔でテーブルに盆を置くと、ルイの真横に座った。

 触れるカイルの体温がじわじわと伝わっても、ルイは暗い表情で俯いたままだ。

「……ルイ、胸を張りなさい……君は、両親に愛されて生まれて来た子供だ」

 カイルの落ち着いた声音に、ルイはゆっくりと顔を上げカイルの碧眼を見つめた。

「……なんで………僕の母さんのことも、父さんのことも……なにも知らないくせに! なんで、そんなこと言えるのっ!」

 ルイは涙声で叫んだ。

 うっすらと涙が浮かぶ黒い瞳を、カイルはじっと見つめる。

 その脳裏に、水色のワンピースを翻す魔王の一人娘の笑顔が浮かんだ。

「ルイ……私はね、一度だけ君のお母さんに会ったことがあるんだよ」

『綺麗な色だろう? あいつの瞳の色と、同じ色なんだ』

 誇らしげに言うその声が、彼女の笑顔と共にはっきりとカイルの脳内で再生される。

「……魔族の、高貴な身分の女性だよ。髪も瞳も、顔の造りも……君にそっくりでね……とても可愛らしい女性だった……君のお父さんのことが、大好きでね」

 愛する人の瞳の色と、同じ色を身に着けたい。

 そんな可愛らしい乙女心を、彼女は持っていた。

 カイルはそっと瞳を伏せる。

 なぜ……この子は一人でいるのか……

 カイルはすぐに意識を切り替え、微笑を浮かべてルイを見る。

「大好きな人との間に生まれた君を、お母さんが愛さないわけがない。それにね……君にかけられた不死の呪いは、お母さんの思いでもある。生きて欲しいと……なにがあっても」

「……そんなの……嘘だ……」

 ルイはカイルから視線を外し、呻くように呟いた。

「君のお母さんとお父さんが、なぜ君を手放さなければならなかったのか……その理由までは、私にもわからない。だが、君のお母さんは誰かを傷つけることを望まず、君の命を守ることを選んだ……ルイ……今はまだ、お母さんやお父さんの愛を信じられないかもしれない

。だから、今は私の愛を信じなさい」

 その瞬間、パッとルイの頬が赤く染まる。

「愛しているよ、ルイ」

 カイルは額をルイの髪に押しあて、囁くように言った。

 そして、無言でその小さな肩を抱く。

 私は、ルイの親にはなれない。だが、私は私なりの愛情をこの子に注ぐのだ。

 腕の中で小さく震えるルイをそっと抱きしめながら、カイルは固く心に誓っていたのだった。

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