第9話 朔

 あの日の夜、空には細長い月があった。

 新月の晩は月明かりが乏しく、闇に生きる者が蠢くのにもっとも適している。

 ざわり、卓上のランプの炎が揺らいだ。

 男の膝の上でじっと丸まっていた彼の愛猫がむくりと起き上がり、音もなく床に降りるとスタスタとその場から立ち去る。

 男は微かに嫌な予感を覚え、額を曇らせた。

 思い当たる節はある。

 以前愚かな兄に頼まれ、水晶球にある加工を施したものを渡したのだ。

 ある加工とは“強力な異能の力を吸い込み、その力を水晶球の内側に留まらせる”というものだ。

 おそらく兄は自身の持つ力では到底敵わない相手と対峙する為に、その品を依頼して来たのだろう。

 本当は、依頼を引き受けたくはなかった。だが、兄には返さねばならぬ恩がある。

 本来なら家の後継ぎとならなければならない男は、兄が代わりに家督を継ぐからという条件で両親から自由に生きることを許されているのだ。

 もちろん、兄が快く家の跡継ぎを引き受けたのには理由がある。

 有能な弟の力を、自分の思い通りに使う為だ。

 その黒い意志がわかっていても、やはり男は自由に生きることを選んだ。

 人の世に紛れながら、好きな研究や製造に没頭したい。

 そうして過ごす日々の中、兄からはごくたまに作業を依頼されていた。先日の水晶球の件もその内の一つに過ぎない。

 兄からの依頼を受けていれさえすれば、今の平穏な人間社会での暮らしは誰にも邪魔されることはない。

 兄の依頼を断ることは、弟には到底できなかったのだった。


「ハルク様……」

 浮かない表情のままテーブルで手を組む男の前に姿を現したのは、執事服に身を包んだ初老の男だった。

 整えられた真っ直ぐな銀色の髪、銀縁の眼鏡、嫌味のない口髭。眼鏡の奥で光る瞳の色は、ブルーグレーだ。

 魔王がもっとも信頼を置いている、側近の男である。

 ハルク、と呼ばれた男はこの初老の男を知っていた。

 ハルクは魔王の妹の次男だ。魔王から見れば甥にあたる。

 ハルクは魔界で生きていた頃、魔王の棲む城に何度か訪れたことがあり、その際にこの男と会っていた。もちろん、従兄弟である魔王の一人娘リアンとも面識がある。

 目の前に立つ男からうっすらと滲み出る殺気に、ハルクの表情はますます冴えないものになっていく。

 魔王の側近であるこの男が、いかに冷静沈着な性格をしているか……ハルクはそれをよく知っていた。

 高ぶる感情を抑えきれない様など、今まで見たこともない。

 ……間違いない……兄は、あの水晶球を彼女に使ったのだ……なんてことをしてくれたのか、あの兄は……

 ハルクは胸の内で天を仰いだ。

 側近の男からすれば、ハルクは人の世に紛れて生きているとはいえ、王家に列なる家の者だ。どんなに怒りを覚えようとも、そんな人物に手を出すわけにはいかないだろう。

 ハルクは怒りに震えている男の中ですやすやと眠る赤子を見た。

 側近の男は、魔王の一人娘リアンの教育係をも担っていた。

 ハルクはそれも知っている。

 当然、彼女に傾ける情念は並ならぬものがあるだろう。

 男が大切に育ててきた魔王の一人娘リアンが、人間と結婚し子を授かったことはハルクも使い魔からの知らせで知っていた。確か、双子の兄妹だったはずだ。

 だが、男が抱いている赤子は一人だけだった。

 ハルクは腰掛けていた椅子から立ち上がり、男の向かいに立った。

 兄か妹か……なぜ、赤子は一人だけなのだ……もう一人の赤子はどうした?

 ハルクの脳裏に次々と問が湧き、最悪の事態が脳裏をかすめる。

「ハルク様に、お願いがございます」

 初老の男はハルクに深々と頭を下げ、淡々と言葉を紡いだ。

 だが、その身から滲み出る怒りのオーラは少しも変わらない。

「……私に……なのですね……」

 ハルクは無表情のまま微かに眉根を寄せ、じっと男を見つめた。

「この娘をあなたの傍に……あなたが暮らすこの町の住人として生かし、その成長を見守って頂きたいのです」

 それは願いというものではなかった。

 この男はハルクが断れない事を知っていて、赤子の預け先にと決めているのだ。

 首謀者の弟に、選択権はない。

「……娘ということは、妹の方なのですね」

 ハルクは男から事情を聞きもせず、すべてを理解した。

「承諾していただけますか?」

 下げていた頭を上げ鋭い視線を投げつけてくる男から、ハルクは無言のまま赤子を受け取った。

 それがハルクの下した決断だった。

 この娘の素性を、彼女が本来の力に目覚めるその時まで隠す。

 赤子を見るハルクの瞳が一瞬だけ赤く染まり、また元の色に戻った。

「なるほど……不死の肉体を持ち、おそらく生まれつき持っている強力な魔力の封印は既にされている」

 ハルクは低い声音で呟いた。

「この町の住人として生きていくには、後者の条件は必須です。では、私はもう一つの条件を満たすことにしましょうか」

 ハルクは言い、手をそっと赤子の額に乗せた。

 眠っている赤子の真っ直ぐな黒髪が、みるみる癖のある明るい茶色に変わっていく。

「今は眠っているから見えませんが、瞳の色も髪と同じ色になっています。体質も少しだけ変えました。怪我がすぐに治癒してしまうようでは、周囲の人間に怪しまれますからね」

 ハルクは言い、腕の中の赤子の穏やかな顔を見つめた。

 なにも知らずに眠るこの娘の人生を、こうして狂わせている。

 ハルクは微かに湧き上がる憐憫の情をそっと打ち消した。

「……ありがとうございます」

 初老の男はにこりともせずに言い、再び頭を下げた。

「……礼など要りませんよ」

 本当は、私の事を今すぐ八つ裂きにしたいだろうに……

 ハルクは男の心中を推し量った。

「この娘の預け先には当てがあります……彼女が覚醒するその時まで、私が責任を持って見守ります故……どうぞご安心を」

 それが、自分にできるせめてもの罪滅ぼしだ。

 リアン……

 瞳を伏せるハルクの脳裏に、輝くような明るいリアンの笑顔が浮かび、消えていったのだった。


 家の外のすぐ側で、赤子の泣き声が聞こえる。

 それは明け方の出来事であり、家人の夫婦はすぐに不信感を抱いた。

 夫が慌てて戸を開くと、その傍らに白いおくるみの中で泣き声をあげる赤子がいた。

「まあっ……」

 その後ろから顔を出した妻が、いそいそと赤子を抱き上げた。

「一体、誰が……」

 夫は困惑した表情で辺りを見回したが、人影どころかその気配すらない。

「困ったな……」

 夫婦は子宝に恵まれず、ずっと二人で暮らしていた。

「……もし……この子の親が見つからなかったら……」

 妻が腕の中で泣き続ける赤子を見つめながら、呟くように言った。

「見つからなかったら……その時は、俺達の子として育てよう……」

 もしかしたら、神様の思し召しかもしれん。

 夫は、明けてゆく空を見上げた。

 まだうっすらと残る、細い月が妙に気になった。

「もしこの子が女の子だったら、三日月さまの名をつけよう」

 ふと思いつき、夫は言った。

「気が早いわ、あなた……その前に、ご近所の方からミルクを分けてもらわないと……」

 言い、妻は笑った。

 この夫婦の元に預けられた娘は、その後夫婦の娘としてすくすくと成長していく。

 時が満ちる、その時まで。

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