第7話 図鑑

「これがなにか、わかりますか?」

 銀縁の眼鏡をキラリと光らせた、いかにも家庭教師風の女が言った。

 そのテーブルの向かいには、身を縮ませているルイがいる。

 ハウスキーパーから噂を聞き、カイルが電話で依頼した家庭教師がやってきたのだ。

 彼女は挨拶がてら、教え子となるルイにどのくらいの学習能力があるのかを知りたいと思っていた。

 そんな彼女が持参してきたのは、動物や食べ物、人物などが描かれた本だ。

 緊張に身を縮こませたルイは、目の前に広げられたそれらを真剣に見つめ、うーんと唸って考えた末にそのほとんどに左右に首を振った。

「ふむ、なるほど……カイルさん」

 二人のやり取りをにこにこしながら眺めていたカイルに向かって、家庭教師はきりりと言った。

「この子は孤児院で何一つ学んでおりません。おそらく、絵本の一冊もないような環境だったのでしょう……このような場合、動物園や街などで様々なものを目で見て触れた方が早い。目で見て、耳でその名称を覚えるのです。文字は、それからに致しましょう。こちらには、図鑑や絵本はありまして?」

「あー……そういった本は一冊も持っていないので、先生がお帰りになったらすぐに買いに行きます。あと、動物園と博物館と美術館と遊園地には、今週中に行きますので」

 え、そんなに?

 にこやかに家庭教師に言うカイルの言葉に、ルイはこっそりとぎょっとした視線を向けた。

「了解致しました。では、私はまた来週伺うことに致しましょう」

 家庭教師はにこりと笑ってテーブル上の本を持参してきた鞄にしまい込む。

「はい、よろしくお願いします先生」

 帰っていく家庭教師の背に頭を下げるカイルを見て、ルイも慌てて頭を下げたのだった。


「さあて、どの本にするかな……楽しみだね! その前に、市場を覗いて行こうか」

 カイルはウキウキとした様子で少し戸惑っているルイの手をひいた。

 カイルとルイが二人で街に出るのは、これが二回目だ。

 一度目は服を買いに行ったのだが、ルイはあまりに混乱していて街の様子も店の様子もあまりよく覚えていなかった。

 この街はかなり整備が整っている。

 石畳の道、路面電車、馬車、自転車……ルイにとってはまだ見慣れないそれらが、街の至る所に沢山あった。

 それらに目を奪われポカンとしていると、道行く人とぶつかりそうになる。

「あれは路面電車、あれは馬車というんだよ」

 そんなルイをうまく導きながら、カイルは笑顔で物の名前を教えていく。

「路面電車……馬車……」

 ルイはカイルから単語を教わるたびに、それを繰り返し口にする。

「……なんだか……すごい……」

 すれ違っていく自転車に、ルイの視線が奪われる。

「あれは自転車さ……練習すれば、君も乗れるようになるよ」

「えっ、本当に?」

 ルイが驚きに目を見開く。

 そのきらめく黒い瞳は、かつて一度だけ会った魔王の娘をカイルに思い出させた。

「……あぁ、本当さ……」

 可能性の塊そのものであるルイに、カイルは眩しそうに目を細める。

 彼女の瞳の輝きも、ルイのように美しかったな……

 ルイにそっくりな娘を脳裏に描き、カイルはほんの少しの間だけ、胸が疼く懐かしさに酔いしれていたのだった。


 二人がたどり着いた街の市場には、色とりどりの品が並んでいた。

 赤、オレンジ、ピンク、緑、白、茶色、黄色……

 野菜売りや花売りの軒先で、カイルはルイにそれらの名を教えていく。

 ルイはその一つ一つを食い入るように見つめ、その名を口にした。

「今度、お手伝いさんと一緒に料理でも作るといいよ。自分で作れるようになると、いざという時にも役に立つしね。食べ物の名前も覚えられて、一石二鳥さ」

 いい案だろう?

 そう視線を送ってくるカイルに、ルイはぼんやりとしつつもしっかりと頷いた。

「さあ、次は本屋さんだ! 本はいいぞ! 文字が読めるようになったら、色んなジャンルの物語が楽しめるようになる。この街にはね、大きな図書館もあるんだ……私のオアシスさ」

 瞳を輝かせて言うカイルの純粋な笑顔に、ルイは一瞬にして引き込まれた。

 本……か……

 それは今までのルイにはまったく馴染みのないものだ。

 それでもまだ見ぬ本の世界を想像し、ルイは胸を高鳴らせた。

 二人は書店に入店し、児童書コーナーへと移動する。

「えっと、まずは図鑑だね……ふむ、色々あるなぁ……どれがいいかな?」

 カイルはわくわくしながら、図鑑の棚から本を引っ張り出した。

 動物、植物、乗り物、海の生き物……

 ルイの黒い瞳の中に、今までに一度も見たことのないものがページをめくる度に色鮮やかに現れる。

「明日は動物園に行くから、動物の図鑑は買っていこうね。あとは、どれにしようか?」

 カイルが次から次へと取り出す図鑑の中から、しばらく時間をかけてルイが選んだのは、三冊の図鑑だった。

 恐竜、宇宙、人体の図鑑だ。

「なるほど、なかなかいいセンスだね」

 にっこりと笑ってカイルは四冊の図鑑を抱えた。

 その後数冊の絵本を選び、図鑑と共に購入する。

 さあ、ルイはどんな顔をするだろう?

 カイルは帰宅する道中それを想像し、わくわくした。

 帰宅後、ルイは早速動物の図鑑を広げ始める。

「これはね、ライオンって言うんだ……顔の周りにフサフサがあるのがお父さんだよ……」

 瞳をきらきらさせるルイの隣で沢山の動物の名を教えながら、カイルは満足気な笑みを浮かべていたのだった。

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