第2話 夢の国の住人
肉、野菜、エキス……様々な素材が混じり合った匂いが、湯気と共に部屋中に漂っている。
ほわりと漂う優しい食べものの香りが、眠り続ける少年の鼻孔をくすぐった。
……あぁ……お腹空いた……
少年は空腹感を覚えつつ、ゆっくりと瞼を開いた。
どこだろうか、ここは……?
少年の目に映る光景は、いつもの青空ではない。見たことのない綺麗な白い壁だ。
「おやあ、目が覚めましたか?」
まだはっきりとしない視覚に、突如男の明るい笑顔が現れる。
少年の意識は一瞬にして覚め、目を見開いた。
逃げないと……!
しかしその意志とは裏腹に、体はピクリとも動かない。
「逃げる必要はありませんよ。私には、君に乱暴なことをする気はないからね」
男の穏やかな笑顔と声音に、少年の緊張感が少しだけ緩む。
……誰だ、この人は……僕をどうするつもりなんだ……
少年は無言のまま、微かに眉根を寄せた。
「まずは君に安心してもらわないといけない。それに必要なのは、干からびてる君の体と頭にエネルギーを巡らせることだ」
……そういえばこの声は……確か、気を失う直前に聞いた声だ……
少年は、路地裏で男の声を初めて聞いた時の場面を思い出す。
『おやまあ……これは面白い……』
面白い……とは、どういうことなんだろう?
「お腹が空きすぎて動けないよね? 大丈夫、私が食事するのを手伝うから、なにも心配いらないよ」
少年ににこりと微笑みかける男の口調は、ウキウキしたものだ。やはり、最初に言った言葉通り面白がっているのだろう。
……なんだろう……なにか、嫌な予感がする……
しかしそう感じても、少年は身動きすらできる状態ではない。
男は少年の体を抱き起こし、その背に支えを置くとワゴンから皿とスプーンを手に取った。
急に近づいたあたたかな食べ物の匂いに、少年の気は一気に皿に集中する。
「……おいしい……」
少年はスプーンからスープを口に含み、ホッと安堵のため息を吐いた。
「口に合って良かった……沢山あるから、ゆっくり食べるといいよ」
男は皿からスープを掬いながら笑う。
この男は、慈善事業家なのだろうか?
少年はスープを口にしながら男をちらりと盗み見た。
男は金髪に碧眼で、肩くらいのストレートの髪を後ろでひとつに結いている。歳は二十代後半といったところだろうか?
しかし、男の詮索は後回しだ。
「……あとは、自分で食べれる」
男の持つ皿の中が空になり、そこに鍋からスープを継ぎ足す男に少年は言った。
「うん、わかった」
男は少年が自分で食べる事ができるようになった事を確認するとコップに水を注ぎ、ベッドサイドのテーブルに置いた。
そして、食事を続ける少年の様をずっとニコニコしながら眺める。
「はあ……」
少年は数回おかわりし、食べることに疲れて大きなため息を吐いた。そして、一気にコップの水を飲み干す。
「お腹いっぱいになった?」
男は満面に笑みを浮かべながら聞いた。
少年は男の優しげな碧眼をじっと見つめ、頷く。
「……ありがとう……おいしかった……ごめんなさい」
少年は小さい声でおずおずと言った。
「君が私に謝る必要はないよ。なぜなら、これは私がしたくてしていることだからね」
男は少年から空の皿を受け取りながら言った。
「君さえ良かったら、未来永劫ずっとここにいていいからね」
……未来永劫?
少年は男の言う“未来永劫”という部分に眉根を寄せる。
それはまるで、少年が永遠に生きることができると言っているようなものだ。
……何者だ、この男は……
少年の内側に、申し訳なさに代わって妙な危機感がじわじわと広がっていく。
「君、天使に会ったね」
突然、男は話題を変えた。
少年は目を見開く。
男の口調は柔らかなもので、問いかけでもなければ咎めるようなものでもない。あくまで確認するかのようなものだ。
少年は真顔で黙り込み、そっとポケットを探る。
……銃がない……
「君の探し物はここにあるよ」
男は笑ってジャケットの内ポケットから一丁の拳銃を取り出した。
途端に、少年は警戒するような視線を男に向ける。
知っているのだ、この男は。この銃が、ある天使達から授けられるものであると。
少年は、その時の光景を思い出す。
柔らかくあたたかな光を纏うそれは、自らを天使と名乗った。
黄金色の美しい髪は、ゆるやかなウェーブを描き。
その背には、汚れなき真っ白な翼が生えている。
満面に穏やかな笑みを浮かべ、鈴をふるような愛らしい声で天使は少年に囁いた。
「あなたを、救いにきました」
純真無垢な笑みを浮かべながら、天使は一丁の拳銃を差し出した。
「あなたに、これを授けましょう……これはね、神がその手で作られた、特別な銃なのです。あなたには、これを使える特別な資格があります。さあ、これを手に取って、あなたの自由を勝ち取ってください」
……これがあれば、飢えなくて済む。
少年はその時、そう思った。だがそのすぐ後で指南を受け、考えは変わる。
これは、そう簡単に使っていいものではない。
本当に身に危機が迫った時。この銃を使うのは、その時だけだ。
少年はそう決意した。
「これは子供のおもちゃにしては質が悪いものだ。というわけで、これは君が大人になるまで私が預かることにするよ」
「えっ……」
男は笑みを絶やさぬまま、拳銃をジャケットの内ポケットにしまい込むと、少年のベッドの傍らに座り込んだ。
そして、不信感でいっぱいの少年の黒い瞳を覗き込む。
少年はハッとした。
男の瞳の色が、碧から色鮮やかな虹色に変わったからだ。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
その瞳の色は、空にかかる虹よりも色濃く鮮やかに輝いていた。
この男は、人間じゃない。
一瞬にして少年はそれを理解した。
次の瞬間、男の虹色の瞳は元の碧に戻る。
「私は神だよ。天上にいるのに退屈しすぎて、自分から地上に降りてきたんだ」
男は笑顔で少年に正体を明かした。
「……神さま……じゃあ、その銃を作ったのは……」
男の瞳の色を見た少年は、自身を神だという男の言葉を疑わなかった。
「いや、これを作ったのは私じゃない。別の子さ」
男は言い、にやりと笑った。
「それにしても、魔族の高貴な血をひく者が天使と契約を交わして、神の造った拳銃を振りかざすとはなかなかないよ」
「なっ……」
少年は顔色を失った。
「君は知っていたかい? 自分が半分魔族だって」
「しっ、知らない! そんな話……嘘だ!」
少年はぎゅっと己れの肩を抱き爪をたて、首を左右に振った。
「……なるほど……なにも知らないのだね、君は」
男はほんの少し気の毒そうな視線を少年に向ける。
「けれど、思いあたる節はあるんじゃないのかな?」
「うっ……」
少年は男からの指摘に顔を歪める。
少年は、心の底から自分の肉体を嫌悪していた。
死なない、のだ。
どんなに傷ついても、すぐに傷が癒える。何日も空腹状態だろうが、絶対に息絶えることがない。
この男は、少年が気を失っている間にその様を目にしたのだろう。
地獄のような日々を体感できる自身の体質を、少年は呪っていた。
「知ることができるといいね、君のご両親のこと……なぜまだ幼い君が、たった一人で生きなければならなかったのかを」
ゆったりとした穏やかな男の声が、少年の耳に届く。
……知ることができるのか……しかし、知ったところで……
少年の強張った表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「人の世で生きる人外の者は、君だけじゃない。私もその内の一人さ」
「……どうして……この世界にいるの……」
少年は膝を抱え、呻くように呟く。
「私はね、人間達の感情のゆらぎが好きなんだ。特に恋愛!」
男はにこりと微笑む。
「え……それが理由なの?」
少年は微かに眉根を寄せて男を見た。
「そうだよ! 天上の世界にも恋愛がないわけじゃないが、こっちの方が断然面白いよ! まあ、君にはまだその面白さがわからないと思うけどね」
「はあ……」
「ついでだから、もう少し自己紹介しよう。私は天上界では夢の国の住人と呼ばれている。今はこんな成りをしているが、自由自在に姿を変えられる。老若男女問わず、動物や昆虫にもなれる。今さっき君に見せた瞳の色は本物さ」
「……さすが神さまだね」
少年は夢の国という言葉を聞いたことがなかった。そしてなにより神という存在を初めて目の当たりにしている。
「すごいだろう? そして私も君と同じ、未来永劫死ぬことがない。その上、傷はつかない、ついでに腹も減らない。しかし、退屈はする」
「……僕は……お腹空くよ……」
ぽつり、少年は呟いた。
「そりゃしょうがない、君は半分は人間だからね。君は知っているかわからないが、今私が預かっているこの銃は人間だけが使うことが許されているものだ。君は半分とはいえ銃を使うことができる資格を持っているから、君のところに天使がその銃持って、姿を現したってわけだ」
それから、と男は少年の瞳を覗き込んで続ける。
「君が死なないのは、魔族の血のせいではないね……そういう呪いがかけられてるのさ。さらにもっと言うと、あと十年位で君は老いない体になる。これは、後付の呪いによるものかはわからないが……それから、その頃には生まれ持った特別な力を封じている印も、解けるよ」
「……なんで……そんなこと……」
少年は再び膝に顔を埋めた。
「まあ一度に色々なことを言われても、はいそうですかと受け入れるのはかなり難しいだろうね」
男はにこにこと笑う。
「私の話に納得するのは、少しずつでいいよ。ちなみに、君にその呪いをかけられたのがいつなのか、それが誰によるものなのか……なんの為なのかまでは、私にもわからない」
淡々とした男の声を聞きながら、少年は膝から頭を上げた。
男はベッドに登り、少年の正面に座り直した。
「だけど、なにもそれを悲観することはない! 人は色んな人生を歩むようにできている! 君も、その内の一人に過ぎん!」
男は少年の瞳を間近で見つめ、熱弁した。
少年は驚き、目を見開く。
悲観するな、とは……
「自分を哀れんでいるとね、どんどんそっちに引き込まれていくんだよ」
男は少年の額に人指し指を突きつける。
「ここの内側にある脳というところに、毎分毎秒刷り込まれていくからね……自分は可哀想な人間だと……すると、脳がそう信じてしまうんだ。まあもっとも、これまで君は空腹との戦いをしてきたわけだから、それも無理ないことだけどね」
男は人指し指を引っ込めて、笑顔で少年の瞳を見つめた。
「私の名はカイル。羽振りの良い貿易商の放蕩息子ってことになっている。君、名前は?」
「……ルイ……」
少年は浮かない表情のまま、呟くように答えた。
「よし、ルイ君! 君は今日から、空腹と戦うのではなく、別の道を歩むんだ!」
「……ひとのこと……勝手に決めないでよ……」
ルイと名乗った少年は小さな声で反抗した。その表情には不快感がありありと浮かんでいる。
だがカイルは一向にそれを気にせず、笑顔を絶やさない。
「まあ、ここから出て行きたかったらいつでも出ていって構わないけど……私は見つけだすからね、君がどこに行っても、必ず」
カイルは“必ず”という部分を強調して言った。
必ずって……
ルイは、微かに頭痛を感じた。
今更ながら、最初に感じた嫌な予感が的中しそうな気がしてならなかった。
「なんで、そんなに僕のこと気にするの?」
ジトっとしたルイの目線に、にっこり笑顔でカイルは答えた。
「なに、簡単なことさ。私は君を気に入ったんだ! なかなかいないしねぇ、自由の身の不老不死の子ってのは……」
「いや、だからなんで気に入るの?」
「なんで……かあ……」
カイルはルイからの重ねての問にうーんと考えこんだ。
「あっ、あれだ! これは恋愛と同じだ!」
ぽん、と手を打ちカイルは嬉しそうに笑った。
「運命だよ! これは運命の出会いというやつなんだ! というわけでよろしくね、ルイ君!」
カイルは渋い表情のルイの手を握りしめる。
「は、はあ……」
ルイはこっそりと重いため息をつき、想像もつかない未来に胸をざわつかせたのだった。
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