魔王の孫と夢の国の住人

鹿嶋 雲丹

第1話 始まり

 始まりは、孤児院の前に置き去りにされた小さな赤子だった。

 黒髪、黒い瞳の男の子だ。

 空には灰色の雲が広がり、遠くで雷がチカチカと光っていた。

「大変、濡れたら風邪をひいてしまうわ……」

 赤子を見つけた孤児院のシスターは、慌てて赤子を抱き上げた。

「ルイ……」

 赤子を包んでいる白いおくるみには紙片が挟まっており、そこにはその文字だけが記されていた。

「これは、きっとこの子の名前に違いないわ……」

 シスターはバラ色に頬を染めた赤子を覗き込み、にっこりと微笑んだ。

 この子の母親には、きっとこの子を育てられない事情があったのだろう。

 思いを込めて我が子に名前をつけてくれたのは、せめてもの救いだとシスターは思った。

 やがて、鉛色の空から大粒の雨が降りはじめる。

 その中を一つの黒い影がうごめいていた。

 それは孤児院のすぐ近くの林にその身を隠した。

 そして、その手を孤児院に向ける。

 虚空から生まれた赤黒い炎が、あっという間に孤児院を包み込んだ。

 炎は色を真っ赤に変えて燃え盛り、雨の降りしきる中、それでも消えずにそのすべてを焼き尽くしたのだった。


 逃げないと……早く、早く……

 しかしそんな思いとは裏腹に少年の足はもつれ、いとも簡単に転んでしまう。

 痛い……いや、そんなことよりも……

 チャリン、と軽い音を立てて少年が懸命に握りしめていた銅貨三枚が地面に転がった。

 少年は慌てて銅貨を拾って立ち上がり、薄汚れくたびれたズボンのポケットにそれを押し込む。

「おい、小僧!」

 野太い声がかかると同時に、少年の黒くて真っ直ぐな髪がぐいっと強引に後ろに引っ張られた。

 しまった……

 少年の髪を掴み無理やり引っ張っているのは、ひょろっとした体格の中年の男だ。

「痛いっ……離せっ」

 少年は懸命にその手をほどこうとするが、明らかに栄養不足の枝のような腕では、しっかりと筋肉のついた男の腕を振りほどけない。

「くそっ!」

 少年はポケットを探り、そこから拳銃のようなものを取り出した。

「おぉ? そんなおもちゃでなにしようってんだ?」

 それを見た男はせせら笑う。

 と、次の瞬間パンッと乾いた音が辺りに響いた。

「痛え……」

 突如発生した耳の痛みに、男は思わず少年の頭から手を離し痛む箇所を押さえる。

 指先に感じる濡れた感触とドクンドクンという心臓の響きに、男は顔を歪めた。

「つ、次は頭を撃つぞ!」

 少年は震える声で威嚇した。その手の中の銃も、ガタガタと震えている。

「頭あ? 笑わせるぜ、そんなザマで頭なんか狙えるか……」

 パン、と二度目の音がした。

 ザクリ、男の頭頂の髪が削られる。

 なにが起きた?

 男は訝しんだ。

 少年の手の内にある銃の銃口は、男の頭頂に向いていなかった。それなのに、その部分の髪がごっそりと削られたのである。

「てめぇ……まさかその銃……幻の銃ってやつか」

 男は少年を睨みつけ、乾いた声で呟いた。

「し、知るもんか!」

 少年は叫び、目を瞑って再び引き金を引いた。

 パンッ!

「ぐぅっ!」

 今度は男の膝に激痛が走る。

「あっ! おいっ、待て!」

 膝の痛みに身を屈めた男は叫んだが、その叫び声を背に既に少年は走り去っていたのだった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 少年は路地裏で立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。

「これがあれば……パンが買える……」

 壁を背に預け、薄汚れた少年はズルズルと座り込む。

 もう何日も、食べ物を口にしていなかった。

 少年はポケットを探り、三枚の銅貨を取り出す。

 今はポケットの中にある銃で撃った男が、露天商から釣り銭を受け取っているところに体当たりし、落とした銅貨をくすねたのだ。

 盗みが良いことではないのは、少年にもわかっていた。

 少年は銅貨を握りしめ、顔を歪める。

 しかし今は、罪悪感より飢餓感の方が勝っている。 少年の小さな体は、生きる事を望んでいるのだ。

「もう少し……大きくなれば……働けるようになるのに……」

 少年はうなだれ、膝に頭を埋めた。

 やせ細った不衛生な少年を雇う者はなく、少年が食べ物を得るにはこうする他なかった。

「おやまあ……これは面白い……」

 膝を抱きじっとうずくまる少年の頭上から、若々しく明るい調子の男の声が降ってくる。

 ……大人……

 少年は絶望感に目を見開いた。

 あの男から必死で逃げ、ようやくパンが買えると思ったのに……また捕まるのか……

「……逃げなくちゃ……」

 少年は心底がっかりしたが、そうしてばかりもいれない。

 少年は再び銅貨をポケットに押し込むと、歯を食いしばりヨロヨロと立ち上がる。

 しかし、少年はもう意識を保てなかった。

「さてと……これは育てがいがありそうだ」

 地面に倒れ込む寸前の、小さくやせ細った体を抱き抱え、金髪碧眼の若い男はにやりと微笑んでいたのだった。

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